散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「全力を尽くす」から「諦めない姿勢」への転換~なでしこジャパンの敗因

2015年07月14日 | スポーツ
なでしこジャパンの澤選手は、今回のW-Cupの代表選手に選出されたときのインタビュー記事において、「選出されたとき、諦めずにやってきてよかったと感じた。自分のためにやることがチームのためにもなる。全力を尽くしてやり切るだけ」と答えている。これはごく、自然に出てきた言葉だと感じる。

しかし、マスメディアを中心に“なでしこ”の言葉が世間に浮遊し、世間を賑わしてくると、単なるチームの愛称が、どこかチームのアイデンティティを表現する何かに変質していったかのようであった。佐々木監督を始めとして、選手達はチームの一体感を意識的に強調しながら話をする様になってきた。

大会が始まる。予選が3試合共に1点差であった。緒戦のスイスは欧州においても実績があり、特に点差に違和感はない。しかし、次の2試合は選手の入れ替えなどがあったにしても、相手の頑張りが目立った試合であった。

今考えれば、決勝戦を予感させる姿が垣間見られたのだ。なでしこはリスクを取った攻めが出来ず、敵が積極的な攻勢に出ると、押されてしまう姿が出ていた。選手達はここで、先にある決勝Tでの厳しさを予感していたとも推察できる。

決勝Tに入って蘭、豪、英と試合毎に相手チームのパワーは強まり、厳しい試合となった。英との闘いでは後半の英の猛攻にタジタジとなった場面もあった。おそらく、得点は入らず、延長・PK戦も視野に入れざるを得なかっただろう。しかし、岩渕投入から攻勢に出て、川澄の積極的なクロスが敵のオウンゴールを誘って勝てた。

ところが、この辺りから「最後まで諦めない」という言葉がなでしこのキャッチフレーズであるかの様に、メディアが捕らえるようになったと感じる。いみじくも佐々木監督は、米国に破れた後に、「最後の最後まで諦めないで走り切るという姿を見せられた。」とまで言う。監督から呪縛に罹ったようだ。

冒頭の澤選手の言葉に戻ろう。
「これまで、諦めにやって良かった!今後は全力を尽くしてやり切る!」
大切なのは「全力を尽くす」であって、これが行動基準になる。「諦めない」はあくまでも結果論に過ぎない。これがスポーツ選手のごく普通の姿のはずだ。

しかし、高まる期待に「全力を尽くす」ではなく、「諦めない」を強調するようになった。この言葉をもとに、自らのサッカーを展開しようとするとき、具体的な行動指針は何も出てこない。何かを積極的に行うという際の言葉ではなかったからだ。一方、米国は試合開始から全力を尽くして自己のサッカーを押しだそうとプレーした。

試合が終了していくばくか経った今、圧倒的に多い、なでしこへの感謝、「諦めない姿に感動した」の風潮に筆者は違和感をもったのだ。何故だろう、との疑問を持って考えた時、ふと思いついたのは、平安時代、その全盛を誇った藤原道長の詠った有名な和歌であった。

「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」

「この世は自分のためにあるようなものだ。満月の欠けたことがないように」との現代語訳がネットで示されている。しかし、ここで思い浮かんだのは、「満月の欠ける」ことに対する一種の恐怖心が無意識に潜んでいた?ことだ。

「全力を尽くす」といっても本当に出来るのか?という疑問が頭に浮かんだとき、何か欠けているものが、との不安が過ぎる。その不安を打ち消すには、一歩引いて「最後まで諦めない」とすれば欠けるものがなく、“完璧”だ。

しかし、この考え方は相手との闘いではなく、自己との闘いという閉鎖的な心理に自らを追い込む危険性を孕む。特に同調的雰囲気の下で、社会的圧力に晒されるとき、これに立ち向かうにはよほどの自己認識に達していないと難しい。
平安時代から現時点に至るまで、私たちの社会は、この点、変わってないのかも知れない。

先の記事において以下のことを書いた。何故こんなことに、との疑問に対する回答が今回の記事にだ。
「開始早々から米国は攻勢に出た。しかし、日本は米国の自己主張に反発せず、そのプレーに付いていくだけであった。日本選手は米国選手に対して距離を置いて下がり、フリーでプレーする十分な間合いをと時間を許した。諦めない姿勢が「我慢」を生み、米国選手に心理までも簡単に読まれてしまったのだ。」
 『米国に“自己主張”を許した“諦めない姿勢”~「なでしこ」の意義と課題3』


      

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