散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

米国議会の「騒動」からの教訓~ショックを受けない日本の地方自治体議会

2013年10月19日 | 地方自治
もし、日本のとある地方自治体議会が年度予算案を否決したとすれば、その自治体首長はどんな対応策を取れるだろうか?当然、暫定予算案を組み、議会へ提案することになるだろうが…。

何かの理由、例えば火急以外の予算も含まれている、を付けてそれも否決し、時間切れで新年度に突入、とすれば、何が臨時に金を動かす法的根拠はあるのだろうか。これが米国の騒動に対して、日本が考えるべき教訓なのかも知れない。

周知の如く、日本の地方自治制度は二元代表制であり、首長も、議会の議員も住民の選挙によって選ばれる。米国の政治制度、大統領も議会の議員も別の選挙によって選ばれるやり方と類似している。

下記の図表は筆者が世話人を務める市民の任意団体「川崎市議会を語る会」が作成した「市民による川崎市議会白書2011年度版」に掲載した地方自治と国政との違いを示す図である。即ち、地方自治法で規定された地方自治政治は国政と異なる仕組みで運営されている(福嶋浩彦元我孫子市長の指摘)。



例えば、川崎市民は市長と議員を共に選挙で選ぶ。何の気なしに投票していることが、最大の違いであり、市長・議会は共に住民に直接の責任を負う。リコール権はその裏返しである。
一方、その住民は国民として国会議員を選挙で選び、国会は首班指名をする。地方自治では「首長、議会」共に住民に対して責任を負うが、「内閣」は国民に対してではなく、国会に対して責任を負う。

川崎市議会では、議会の最高規範として、議会の使命、役割を掲げた「議会基本条例」を制定している。その条例の中で、議会の役割「第3条」のトップに『意思決定』を掲げる。これは、憲法93条の議事機関との規定も含み、討論し、意思決定へ到達することを意味する。

この決定は、主権者である住民に対して責任を負う。しかし、執行は首長以下、行政の仕事である。通常の組織体の考え方は「意思決定=責任」であり、決定内容を執行する。議会も意思決定をする。しかし、執行する立場にはない。では、どのように意思決定を行えば責任を果たしたことになるのか。

 それが『議会=討論の広場』の表現だ。提案(立案、提言)、討論(議員間討議他)により論点・争点を明確化、それを『開かれた議会』として、主権者である住民に見えるように行うことだ。また、住民参加、積極的な広報は当然だ。責任ある意思決定は以上の構造を有する。では、構成員である議員の立場は?

議会は有機体として責任をもった活動が必要だ。二元代表制の代表機関は首長と議会であって、単なる議員集団から責任が生じるシステムではない。すると、議員と議会は団体スポーツにおける選手とチームの関係と同じになる。

ここに『チーム・議会』の概念が生まれる。主権者である住民に見えるように、提案し、討論し、意思を統合する。また、住民の意見を聴くことも当然である。
但し、日本の地方自治体は提案が乏しく、承認だけの意思決定が現状だ。

翻って、今回の米国議会は『チーム・議会』を逸脱した。その原因は、共和党、更にはティーパーティーの強硬な反オバマ感情にある。特にデフォルト問題に対して正面からの提案はなく、時間を人質に抵抗する姿勢だけが目立った。

しかし、ここで大切なのは、上院と下院のねじれが「原因」というのは、間違っているとの認識である。ねじれは「選挙結果」を表した単なる現象だ。しかし、それが如何なる結果であっても、提案から討論を経て、責任ある意思決定をするということは、「議会」に課せられた第一の使命であることに変わりない。

米国議会は、更に質の高い議会へ向けたチャレンジが必要だ。日本の自治体議会は対岸の火事以前の無関心で、何もショックを見せていない。しかし、先ず米国議会並になる、これが日本の地方自治体議会の教訓であろう。

      
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