散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

掟が内面化された「姥捨山に入る」思想~「楢山節考」の世界

2013年10月01日 | 現代社会
冬は雪に覆われ食料にも不十分する、貧しく、孤立した山村。しかし、人々は貧しさの中で食料を得ながらも生活を営み続ける。掟を作り、性愛とも暴力とも共存しながら共同体を存続させ、強靱に生きていく。

深沢七郎「楢山節考」の中核に、70歳になると山へ入る“掟”が設定されている。その掟を巡って、木下恵介が1958年、今村昌平が1983年にそれぞれ映像化している。この2,3年に両作品を鑑賞する機会があって、感じる処があった。

筆者が小学校4年生の頃(1958年)、近くの銭湯に近所の場末映画館の上映ポスターが貼られていた。木下作品は、母親を背負った息子が描かれ、子どもながらに親子の情を感じたのを覚えており、作品もその趣が濃かった。一方、これは比較の問題だが、今村作品は母親を、その掟を内面化した存在と捉えていた。

これを今、論じようとするのは、「「おばあさんの輸出」独で論争 世界の高齢化問題浮き彫り(20130927産経)」を読んだからである。

ポーランドの介護施設へ認知症の母親を入れた66歳の娘。ドイツの施設の半額以下でドイツ以上のサービスを受けられるという。なるほど現代版、それも上質の「楢山節考」か、と考えたからだ。しかし、問題は本人の意思にある。

そこから「親子の情」というよりは、母親の行動を「掟の内面化」した姿として描いた今村作品に関心を寄せる理由がある。更に、それが欧米人に理解され、カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した様に思う。

母親と息子は勿論、情で深く結ばれている。しかし、母親は息子に対して、山へ入ることを自らの意思として表現する。準備を整え、回りに伝えることも伝え、それができれば、時間を引き延ばすことなく、実行の段取りを整える。逡巡しがちな息子を強い気持ちを示しながら先に進むように促す。

対比されるのが、近所の老人・又やんである。縄袋に入れられ、息子にかつがれて山に連れていかれる。それでもいやがるが、最後は谷底へ転げ落とされる。

どちらが人間のホンネなのか。しかし、映像では過剰な感情は込めずに、リアルにその状況を表現する。カラスが不気味に空を舞い、白骨の間に降りる中で、母親は手を合わせて祈る。一方、又やんは悲鳴を上げて谷底へ転げ落ちる。

村の掟とその意味を知るならば、それに疑問を待たず、自ら進んでそれをまっとうする人が多くなければ、その掟は意味をなさなくなる。掟は、続く家族に伝えなければ、存続しない。それが政治学でいう「制度」なのだ。

しかし、制度とは本来、その社会で正統と承認された価値を獲得する定型行動である。「山に入る=死にいく」ということは、謂わば、極限の価値を獲得することに相当する。自らの死を家族とその村を考えて位置づけられなければ、生きるという根源的欲求に逆らうことはできなくなり、自らを掟への反逆者とする「状況」に追い込んでしまう。

この「制度」と「状況」の弁証法的関係を見事な脚本と演出で描いているのが今村作品の価値と思われる。その意味で、「おばあさんの輸出」は私たちにとっても身につまされる問題なのだ。高齢者は自らの意思で社会との折り合いを付けることが必要とさせる時代なのだ。

      

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