散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

安倍首相の国連演説は日本の方向性を示すのか(2)~女性の人権問題

2013年10月11日 | 政治
今日の話は昨日の続き、安倍首相の国連での一般演説を取り上げる。
首相は、国内の成長戦略の一環である「女性が輝く社会をつくる」を引用し、それは国内の課題だけではなく、開発途上国での問題でもあると指摘した。
 『安倍首相の国連演説は日本の方向性を示すのか(1)~核軍縮を巡って131009』

そこで、日本の援助の考え方を、地域の活動に尽くした3名の女性を紹介しつつ、その文脈の中で「35.6億ドル」供出を言明した。筆者は、その紹介と日本の考え方もさることながら、この金額が聴いた人たちに残った言葉のように思った。内訳は、難民対策6千万ドル、アフリカ地域の保健対策5億ドル、ODA30億ドルである。
 『安倍首相の国連演説~現実の力と発言の現実性20131007』

しかし、必ずしもそうではなく、冷泉彰彦氏は一昨日も引用した論考のなかで、安倍首相の演説そのものを、「当然のことを述べたに過ぎない」と言いながら、やや矛盾した表現で「紛争地域や貧困における女性の人権について非常に踏み込んだ発言」と高く評価する。

その評価の理由を以下の様に述べる。
(1)国連の「2015年ミレニアム目標」を忠実に実行する。
(2)更に、現在の「国のかたち」が戦後の国際連合に加盟している「新しい日本」に上に立っている。

何か奇妙な感じがする。(1)だけでは当たり前のことだが、(2)によって「高い評価」が与えられる、と言っているのだ。筆者は奇妙を通り越して、どう理解すれば良いのか判らない。(2)も当たり前のことだからだ。1956年、日本は国連に加盟した。それから60年弱経過している。日本の国連予算の分担率は11%弱で米国(22%)に続いて世界第2位だ。それに相応しいか?それが問題だ。

しかし、冷泉氏は「これによって「古い日本」と「新しい日本」の「国のかたち」の混乱が整理されるからです。」と続け、その延長線上に以下の二点があると言う。
(A)戦前の問題に関してこれまでの政府談話や条約を越えて、現政府が公式の謝罪をする必要はない。
(B)古い日本の行った非人道的行為に関して自身の延長として名誉回復に執着する必要もない。

いかなる意味でも(A)は当然だ。一方、(B)も慰安婦問題ではなく、冷泉氏の言葉を一般論として受け取れば、「非人道的行為に関して名誉回復に執着する」人がいるだろうか、と考える。非人道的行為に関しては、古い日本も、新しい日本も同じはずだ。少なくとも慰安婦問題は事実認識及び日本の対外的な主張の仕方に関することで、名誉回復されるものが含まれるとは思えない。

従って、冷泉氏の考え方((1)(2)+(A)(B))から理解不可能な(2)及び(B)を引けば、((1)+(A))が残り、安倍首相の演説は当然のことを言ったに過ぎないことになる。
そして、中味の感じられない演説から残されるのは、供出する資金になる。

なお、冷泉氏のコラムは非常に啓発されるのもが多く、いつも愛読している。米国に在住し、そこから日本を見る視点も、気づかない点を示すことが多く、認識を新たにする場合が多い。

ただ、新旧の日本を比較する手法には、アメリカ的な日本観が滲み出ているように感じる。アメリカ的な日本観は、日本人にとって啓発的な部分を含むことは認めるが、その一面性に関して修正を図る必要もあるのではないかと考える。

      
コメント
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