遅いことは猫でもやる

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桶狭間合戦 450年祭

2010-05-18 11:46:26 | 行ってきました
古戦場公園

今年は桶狭間の合戦450周年に当たるという。
戦国の当時、このあたり(緒川、半田)を差配していた中山一族の末裔が私の知
人にいる。殿様の血筋だ。東北出身の美人の奥様をもらい、亭主関白を決め込ん
でいるが気さくな男である。

彼からの誘いがあり、このお祭りに参加した。450年祭とあり大変な人出である。
信長、義元の銅像の除幕式があり、名古屋市の河村市長も出席していた。



左 信長 右 義元

河村市長の挨拶

彼は挨拶で、信長は道路や橋などの土木工事も合理的につくり、楽市楽座で税負担を軽減して、
まさに近世の扉を開いた。今で言うと無駄減らしと減税である。河村氏はちょっと我田引
水のきらいはあるが、彼の果たした役割をうまく説明していた。


長福寺にある追悼碑
長福寺境内の案内板

左 長久手郷土史家中野さん 右 桶狭間郷土史家梶野さん 

近年郷土史の分野では、今まで通説になっていた合戦の場所、義元が討ち死にし
た場所が少し南西であったということがいわれている。(「歴史街道」6月号参照
ください)友人はさすが殿様の血筋だけあり、地元の人にも顔が広い。

その顔で郷土史研究家の梶野渉さんと長久手から駆けつけた長久手町郷土史研究
会会長の中野さん前田さんなどにお話を聞いた。

どうして、現在の場所に特定できたのか、という質問に、①当時の兵法では「陣は
できるだけ高いところに置け」というのが常識である。従来の場所では低すぎる
②義元は輿で移動した。道が整備されていないところは避けるはずである。以上
の地形から推測すると現在の古戦場公園の上あたりでは無いかというのが理由で
ある。

織田軍は3間5尺の長槍を使ったが、それは突くより、馬上の武将を叩くためであ
る。この柄はどんな材料で作ったのかまだ定かではない。梶野さんはご自分の兵
役の経験を交え、史実の検証を行い話題豊富である。郷土史家同士すっかり話が
弾んでいたようだ。

信長の勝利に最も寄与したのは「夕立」である。近づく軍勢の足音を消し、落雷
を恐れる今川の兵士は武器を手放し、雨により気勢をそがれた。など夕立が戦いに及ぼした影響をいろいろ説明をしてくれた。

鳴子踊り
おもてなし武将隊
観客は追っかけとおぼしき女性たち
桶狭間太鼓

ライブが続く

町民1万人のところに観客が12000人集まりすごい盛況であった。鳴子踊りや、桶
狭間太鼓、おもてなし武将隊、一人語り(講談)、オカリナ、尺八、謡い、ギター、ライブ、万灯会などたくさんのイベントで8時過ぎまで盛り上がった。

万灯会(まんとうえ) 池に灯火が映り幻想的であった。

近世の扉がこの地で幕を開けたかと思うと感慨を覚えた。