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風月庵だより

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大Oh!水木しげる展

2006-01-09 09:36:45 | Weblog
1月8日(日)晴れ【大Oh!水木しげる展】
 仙台の山田柊羽ちゃんが無事に戻されて本当によかった。
 今朝四時ぐらいから目が覚めてしまい、誘拐された赤ちゃんがどうなったか考えると、心配で眠れなくなってしまった。祈るしかなかったが、五十時間後に無事に元気で発見されたという。本当によかったです。
 
 今日はおめでたい日なので、私も休日としました。
 そこで、明日までの水木しげる展に思い切って出かけた。空は青いし、風もそれほど冷たくはなし、久しぶりに吸った外の空気のおいしいこと。バスやら電車やら乗り継いでようやくJRの武蔵小杉に着いた。そこから川崎市市民ミュージアムまでのバスが出ている。ここは等々力緑地のなかに建設された川崎市のミュージアムである。同じ敷地内に野球場やグラウンドやプールも設置されていて、川崎市民のみならず近県の人々に利用されていて、人々の憩いの場所になっている。素晴らしい。
 
 いよいよ大Oh!水木しげる展の会場に到達した。大と書いてとOh!と読むのである。入り口には水木さんと等身大の水木しげる人形が出迎えてくれていた。軽く手を上げて思わず御挨拶してしまった。入り口近くには水木さんが十六歳頃からの絵が展示されていて、女性が美しく描かれているのは意外であった。貸本作家であったころの作品でも女性がとてもきれいに描かれている。水木さんには妖怪のイメージが強いが、妖怪のみならず武士や精悍な兵士の漫画も、貸本作家の頃に多量に描いている。どんな絵でも描ける人が個性的なキャラクタ-を生み出せるのだと痛感した。相田みつおさんの書と同じことが言える。 
 水木しげるさんの本名は武良(むら)茂である。大正十一年(1922)三月八日に父亮一、母琴江の次男として生まれた。小さいときから「ていのう」と呼ばれていたので、自分の名前は「ていのう」だと思っていたら、それは低能の意味であったと後から知ったとテレビの中で話されていた。さらに「子供を低能などと呼ぶことは良くないですな」と八十の水木少年は述べていた。私も子どもの頃オンチといわれてとても傷ついたことがある。歌手にさえなろうかと夢見ていたのに!
 少年時代の通信簿も展示されていたが、十段階方式で図画と体操は十であるが、算術と英語は平均四である。よくこのような通知表を保存してあったものだということも感心したが、展示してくださるのにも感心した。世の親御さんたちに、子供には好きなことをさせてやってくれ、というメッセージでもあろうか。
 
 少年のころから描くことが好きで、十代からすでに画家になることを夢見ていた水木(この頃は水木ではないが、)青年はなんとか美大に入学したいのであるが、合格できずに悪戦苦闘。そのうち兵隊にとられてニューブリテン島のラバウルにおくられる。そこで爆撃にあって左腕をもぎ取られてしまったのである。悲惨な軍隊生活のようななかで、現地のトライ族の人々が食べ物を与えてくれ、友だちとして受け入れてくれるという得難い時を過ごしている。
 復員してからは紙芝居を描いたり、貸本を描いたり、陽の目を見ない苦労の末に「テレビくん」で講談社児童漫画賞を受賞。四十三歳のときである。それからは売れっ子となって現在までの活躍になる。 

   人間つまらんことでも骨をおっていればやはり、
   天の報いのようなものがあるような気がする。
 
 
 水木さんの『ほんまにオレはアホやろか』の最後に書かれている言葉である。
 今日は、苦労しながらも自分の好きなことをやりとおしている水木さんの息吹に触れた一日だった。妖怪に関する世界中のコレクションも展示されていた。子供づれの家族がほとんどで、賑やかな会場を、私もわくわくしながら楽しんだ。 

 実はこれだけでなく全く予定外であったが、このミュージアムには映像ホールもあって、映画の上映がある日だそうで、山本薩夫監督の『人間の壁』を観ることができた。今ではほとんど観るチャンスの少ない映画であろう。考えさせられる映画であったが、この紹介はまたの機会にしたい。