mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

行列のできる「自己承認」

2019-06-02 09:44:19 | 日記
 
 昨日この欄で「何という冒険!」とエベレスト山頂の渋滞待ちを揶揄った。命がけの人たちを揶揄うなんて何と失礼な、とお叱りを受けるなと思った。まったく他人事、そんな行列のできる山にどうしていくのかねと人の不思議を呈することに留めて置くことにする。あの人たちは無事に下山できたのだろうか。続報は、ない。
 
 他人事でなく考えるには、わが身に引き入れて、どうして行列のできる危険な山頂に押し掛けるのかと、水鉛を降ろすことだ。おまえさんは、どうなんだい? 山を歩いて来て、そういう誘惑にかられなかったかね? そう自問してみた。危険を厭わない冒険という視点から、私の山歩きを見返してみると、どうだったか。
 
 山歩きはいつごろから? と問われて私は「大学のころ」と答えてきた。一足早く東京在住の学生であったすぐ上の兄が、連れて行ってくれた。年に1回か2回。大学の同級生に誘われて北八ヶ岳に行ったこともあった。大学の体育に1週間の登山講習があったので、立山へ行き、テント泊とピッケルやアイゼンなどの実地訓練を受けたのが、私の山初めといえば言えた。もちろん冒険という意識はない。
 
 その後仕事に就き結婚して、山育ちのカミサンと、あるいは子どもを連れて一緒にあちらこちら歩きはした。山歩きはつづけているものの、登山をしているとは思っていない。あとで振り返ってみると、そのころ上っていた山に、いわゆる百名山がいくつもあった。要するに、よく知られた山だから登っていたにすぎない。立山で登山訓練を受けたのが自信になっていたとは全く思わないが、長男が小学1年生になった年には富士山へ連れて登った。30歳代の半ばである。全くの素人山歩きである。
 
 そうか、思い出した。30台の後半になって、勤め先のランニングをしている人たちと毎日のように、走り始めた。はじめは3キロ、それが10キロになり、ときには20キロになったりして、自分の身体を意識し始めた。同時にその頃、本格的に山の技術を身に着けようと登山研究会というグループに所属して、岩登りや雪山、山スキーなどを教わり、実地に、谷川岳や瑞牆山、足尾ジャンダルムや鹿沼など、関東の岩場に通った。冬の富士山の雪山訓練、安達太良山・鉄山・箕輪山・鬼面山を縦走し、雪洞を掘って一晩過ごす経験も、何度もした。
 
 その後、40台の半ばに、当時ソ連の7000m級の山に登るプランが提起され、それに向けて冬富士の山頂でビバークすることや、厳冬期の八ヶ岳の阿弥陀岳や赤岳から硫黄への縦走を、途中ビバークを挟みながら行ったり、3月末の唐沢にテントを張り、前穂高岳の5,6のコルから前穂へザイルを結んでトライしたりして、それはそれで私にとっては冒険といってもいいほどの緊張感に包まれた山岳訓練であった。カミサンの入院手術というアクシデントがあってソ連の高峰へ私は行けなかったが、この間に共に行動した人たちとは、いまでも行き来がある。
 
 この、岩登りとザイルを結んでの雪山登攀をしていたときに私は、ひとそれぞれの「冒険」があると感じていたと、いま思う。岩登りの私の師匠は、のちに日本山岳協会の強化本部長を務めるような方であったが、この方がトップで上り、私がセカンドを務めているとき、はてどうやってここを上ったのか、見当もつかないオーバーハングの長い個所を、一番隅の方にカラビナで安全確保をしながらすすんでいる。カラビナを回収しにそちらへ行くこと自体が難しいうえに、そちらへ行くと今度はオーバーハングを辿る手掛かりが見つけれない。「おいっ、何やってんだ。早く来い」と上から怒鳴り声。「ザイルをつかんでもいいから登ってこい」というので、大きく振り子のように揺られて通過したことがある。セカンドはトップの半分の時間で上れ。そのとき手がかり足掛かりをしっかりしていれば、ザイルをつかもうと何をしようと構わない、と教わった。上からざれ石がガラガラと落ちてきて、ヘルメットで受け止めたこともあった。彼の師匠にとっては(セカンドが当てにならないから)自分の確保をきっちりして上るのだが、セカンドの私にとっては「大冒険」。命がけのように思ったことが何度もある。
 
 つまり、「冒険」というのは人それぞれの力量に応じてそれぞれに待ち受けているもの。自分の力量の精一杯のところを少し超えるようなところを(無事に)歩けば、それが達成感にもなり、自分の現在の輪郭を知ることにもなり、さらに次の目標が設定できたり、できなかったりするものだと考えるようになっていった。要は自分の力量を見極めること。バカの壁も立ちはだかる。自分が無理と思えば、その壁は越えられない。といって、自分でやれると思っても越えられない壁もあるから、そうした壁を意識しながら一つひとつ「冒険」をくり返して、力量をあげていく。それはたぶん、外からは見えない。だから山歩きをしない親しい友人が私の岩登りや雪山歩きの話しを聞いて、「なにか死にに行っているみたいだね」と感想をもらしたのが忘れられない。
 
 それでも私は、行列ができるところへ行きたいと思ったことはない。カミサンは早々と日本百名山を上ってしまった。いくつかは家族も連れて行ったところであり、いくつかはカミサン単独で、あるいは山仲間と、あるいはツアーにのっていった。私が50歳くらいだったろうか、西穂高から槍ヶ岳までの縦走を共にしたこともあった。ジャンダルムや大キレットを通過したとき「冒険」しているという自覚はなかった。ザイルもヘルメットも用意していない。でもいま思うと、それが若さだと思う。体力もバランス感覚も、集中力も身に着いたものが自ずと作用して、安全に通過することを第一優先にする技量になって現れていたのだろう。その頃に登った羅臼岳に古稀のころに登ってみて、この山の山頂付近にこんな岩場があったことにはじめて気づいた。若いころは何でもないところだったのだね。
 
 ただよく知られた山だからという要素もあったかもしれないが、何かの話に聞き、あるいは本で読んで、面白そうと思ったところへ足を運んだ。だから、何度も同じ山へ、同じルートであったり違ったコースをとって、足を運んでいる。人を案内してそういう名の知れた山へ行くことも多くなったから、段々「冒険」の意味合いは希薄になり、それでも初めて行く山は、ちょっとした緊張に包まれて歩く。せいぜいその程度の冒険になっている。
 
 ところが後期高齢者になった今、カミサンが百名山に上っていてよかったと、感慨深げに言う。足を骨折して以来か、ときどき不調になることがあり、だんだん何日もかける山歩きはしなくなり、いまはせいぜい6時間程度の日帰りハイキングくらいにしか、行かない。あとは植物や鳥を観察して旅をするアウトドアが愉しみになっている。そのカミサンが、行く先々で山の話が出て、百名山に登ったというのが(その年で……と)称賛を得て、ほくほくしている。つまり一つの、力量の証明なのであろう。「証明」というのは、周りの認知による自己承認だから、それもまた、人それぞれとは言いながら、それなりに名の知れた山が良き認知を得て、より固い自己承認につながる。
 
 行列のできるエベレストというのも、そういう「自己承認」のひとつなのだろう。エベレストに登ったというのが、登山家としての自己確立の奈辺に位置するのか私にはわからないが、でもたしかに、並大抵でないことは、感じられる。でもなあ、そういう自己承認ってなんだろう。並大抵でない「冒険」なら、別にエベレストでなくても、見つけることはできる。歳をとれば、単独行自体が冒険だと、私はカミサンにいわれ続けている。「冒険」が、神々の領域に身をおくことであり、(山を歩くことによって)ある種の神の啓示を得ることだとすると、むしろ、人それぞれに裡からさす光にこそ、冒険があると思える。行列は、ちょっと違うんじゃないかと、思ってしまうのだが。

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