mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

アイデンティティの盛衰

2024-04-17 09:11:57 | 日記
 おもしろい記事を見掛けた。東洋経済オンライン(2024/04/11)「ロシアに無知だったEUはソ連のように自壊する――ロシアを民主主義の反面教師としてきた欧州のツケ」的場 昭弘(神奈川大学名誉教授)。ウクライナの苦境をハラハラしてみているワタシにとっては、逆転の発想でありながら、そうだよなあと腑に落ちる思いがしている。
 簡略にいうと、EUはその結集のアイデンティティを「ロシアの脅威」を鏡にしていたのに、ソ連崩壊後それを忘れてロシアを放置してきたというもの。
 今ここに来て「ロシアの恐怖論」と姿を変え、「ノルディックバランス」と呼ばれていたスウェーデンやフィンランドもEUに加盟することになり、NATOとロシアは(ウクライナを含めると)直に国境を接して向き合うこととなった。ところが、ウクライナ/ロシア支援の進展とともに明らかになったのは、現実に今NATOが向き合っているのは単なる「ロシアの恐怖」ではなく、中国やイラン、パレスティナを含むBRICSやグローバルサウスという大きな対抗軸だとわかってきた。それに従いNATOの内部も求心力を失う様相が露わになり、ひょっとしてアメリカにトランプ政権が誕生すると、ウクライナどころかEU自体が崩壊しかねないと論じている。
 ロシアのウクライナ侵攻を、自由と民主主義体制の脅威とみて、私などもウクライナ負けるなと声援を送ってきた。ところがEUは(ロシアを鏡に)反面教師として自らの求心力としてきたという。そう言われてみると、モンゴルの襲来やフン族の侵入など、野蛮なアジアの脅威、あるいはイスラムとの長きにわたる対抗がヨーロッパというひとまとまりのアイデンティティの核になってきた。それはもう、ほとんど「無意識のヨーロッパ・アイデンティティ」としてEUの求心性を担保してきた。ギリシャ起源の物語も、その過程で紡がれて伝承されることになったと言えようか。
 それが、21世紀の20年代になってバラけてきた。高度消費社会を実現したEUといっても一枚岩ではない。統合市場の統一通貨ユーロという条件の下、遅れている南部ヨーロッパを踏み台にしてドイツやフランスは産業的隆盛をいっそう誇り、ときにギリシャやスペインの「遅滞」に厳しい要求を突きつけながら、EUの世界的な地位を築いてきた。だがそれが実は、表層においてシステム的に統一を保ってきたものの、その実、大きな格差に齟齬がギクシャクと深まり、そちらこちらで確執が醸し出されて、ただ噴き出さないでやってきた。それが、ロシアのウクライナ侵攻とそれに対するNATOの対応をきっかけにして、抑えようがなくなりつつあるというわけだ。
 この論旨がワタシの腑に落ちるのは、覆い隠していた物語りが剥げ落ちて、衣の下の無意識(アイデンティティの核)を露わにする地平で、EUとロシアの関係を取り上げているからだ。これを、東アジアに引き据えてみると、北朝鮮という硬い棘があったが故に和らいでみえていた日本と露中との関係が、ロシアのウクライナ侵攻と中国の香港制圧によってくっきりとアイデンティティの対立として浮き彫りになった。そうなったところへ、トランプの露骨なMAGA中心主義が押し出してきて、アメリカ頼りでやってきた外交防衛問題が、いよいよ本気で自立防衛として一本立ちせざるを得ない地点へ押し出されている。我が宰相は、ここへきて本気でアメリカとの同盟関係を盟約するような言葉を吐いて、おいおい、そんなことまで言って大丈夫なのかよと、海のこちらで聞いている国民を心配させている。
 大丈夫なのかと心配するわけは二つある。一つは、対等の同盟関係と言うだけの行動力の実際的な力があるのかということ。もう一つは、そんな行動を自律的に口にするだけの法的な根拠が、どこにあるのかということ。前者は、とどのつまり日本の自衛隊は全きかたちで米軍の指揮下に入ることを意味している。後者は、ああ、この国の政治家は、「法治」ということを中国の権威主義国家と同じように考えているのだと、再確認するようであった。
 もう一段我が身に引き据えて考えてみる。市井の八十爺のアイデンティティは、先ず第一に、ありとある現存する生命体の生き方と同じにある。力の無い喰われる存在として生きているものは「逃げるにかぎる」。もちろん逃走しないで、闘争する道もないわけではない。だが、ヒトのセカイでもそうであったが、弱いものが、なんの力の根拠もなくタタカウとというのは、メイヨやホコリやキョウジやジソンという上着を着ているからであった。もちろん潔さとか滅びる美学も上着のひとつである。だがトランプのような、プーチンのような、習近平のような、素っ裸の巨人やイスラエルのような、いつも絶壁を背に置いて世界と対峙して牙を剝くしかない狂気の人と向き合って、メイヨやホコリやキョウジ、ジソンを突き出すアイデンティティとは、なんだろうか。それをワタシはもっているか? ヒトとして問うととどのつまりワタシは生命体の生き方の原型に行き着く。
 ヒトとしてのメイヨやホコリやキョウジやジソンは、MAGAやロシア帝国や中華帝国の欲望次元と拮抗するようなものなのか。人類史の末端に位置していると考えたとき、もはや地動説的な外部の自然を棚上げして、我が身の生き残りのために他の部族文化を殺戮する人動説的なセカイは、身を置くに値するものにはならない。そう我が無意識のアイデンティティの核は訴えているように感じる。
 無意識が訴えるというのは、言語矛盾。我が心持ちも、相容れないことを受け容れるほかないと、戸惑っている。そう「感じる」くらいのところで、今日は収めておきましょうか。

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