mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自然観の、無意識と意識

2024-09-07 08:37:01 | 日記
 東洋経済onlineの9/5と9/6に広井良典の論稿が連載された。
(1)日本人の「自画像」の書き換えが必要とされる理由――「経済大国」から「アニミズム文化・定常文明」へ
(2)日本で「アニミズム」が保存された3つの根本理由――「自然信仰」を踏まえた「地球倫理」の時代へ
 前稿は所謂「日本人論」の大きな変遷系譜を追い、経済的な繁栄と共に自然観から離陸してコミュニティとか心理的な陳述へと傾いている傾向を取り出している。後稿は、その自然観の根柢にアニミズムが底流していることを指摘し、それが主要文明地域の周縁部分でこそ表層に残されていると、フィンランドなどの例もとりだし、それゆえに今の地球環境にそのものに向き合うに相応しい自然観を保っていると展開する。
 この広井の論稿は、私がこのブログでときどき取り上げてきた無意識の「しこう(嗜好・思考・志向)」を、自然観において展開して見せて、好ましく響く。その自然観が無意識のままに置かれることを良しとせず、意識的に呼び起こして環境問題を考える基点に据えようとしている。欧米風の世界宗教的な観点では、わが身から離れてしまう。それを心身一如として暮らしの振る舞いの中に滲み出させるアニミズム的な自然感を「定常文化」へ転轍していこうとするオモシロイ展開だ。
 広井はそれを具体的な暮らしにおいて、例えば秩父の小さな小川の水力発電が150世帯分の電力をまかなっているケースを取り上げ、言葉にしてはいないが、小さなコミュニティの自律的な構成をイメージしている。実際それらの具体的な運動に連携もした活動をしていると行間に漂わせる。
 1961年生まれというから、いま62歳か。日本が高度消費社会を迎えた最中に育ち、バブルがはじけた頃に30代を迎えて、以来30年余、上記の論稿もさることながら、彼の実人生の後半がまさしく、前半との対比を避けられなく対照させ、それがそのままこの方の研究課題になったような気配を感じる。
 別様に謂えば、市井の門前の小僧として過ごしてきたワタシの、人類史的には異例の時代を照らし出すことを然らしめる生き方をしたのであろうと、共感を持って読んでいる。ほぼ一世代後のワタシのテーマの継承者。むろん私がただの八十路爺であることを忘れて浮かれているのではありません。
   同じ時代の空気を吸って生きてきて、こうやってどこかで通じていて、彼が(1)や(2)で指摘する論稿の図書を、ほぼ全部私も目を通しているという親近感。彼の位置づける「日本人論」と自然との関係を、私は山歩きという体感を通して、強く感じとってきたという心身一如の自負。それが謂わば、学問的裏付けをしてもらったという誇らしさを、同時に感じている。
 そう、私流のワタシを感得する経験主義的方向が、あながち見当外れでもなかったとお墨付きをもらったような感触を得ている。
 もう一つ彼が、無意識と意識の狭間にある身体観を挿入して論稿を磨き上げてくれると、我が意を得たりという展開になる。そうは思うが、彼は(たぶん)実践的な社会的関わり合いを保ってそれをなしつつあるのであろう。そう類推して、もって瞑すべし。
 少しばかり彼の著書を読んでみようかと思っている。

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