ホテルのフロントに荷を置き、早速ガイドがついて出かける。15時。
ガイドは栃木県生まれの在日二世(か三世かな)。両親が朝鮮人と自己紹介する。いまは対馬に定住しているそうだ。案内してくれたのは対馬藩主宗家の墓所・万松院。街並みを外れて山への道を辿る。なんでも建物が崩れそうという対馬博物館は休館中。その南奥にある金石城跡の古びた木製の入口・櫓まで行って脇道へ逸れ、車道に出る。その先には対馬朝鮮通信使博物館もある。それもすり抜けて奥へ進んだ行き止まりに万松院がある。
ガイドは道々、秀吉の朝鮮出兵のときに先遣を命じられた宗家の苦衷を話す。米の獲れない対馬は朝鮮から米を輸入して暮らしを立てていたから、朝鮮に攻め入るのは自らの暮らしの元を絶つようなこと、致し方なく応じたという。
ガイドは栃木県生まれの在日二世(か三世かな)。両親が朝鮮人と自己紹介する。いまは対馬に定住しているそうだ。案内してくれたのは対馬藩主宗家の墓所・万松院。街並みを外れて山への道を辿る。なんでも建物が崩れそうという対馬博物館は休館中。その南奥にある金石城跡の古びた木製の入口・櫓まで行って脇道へ逸れ、車道に出る。その先には対馬朝鮮通信使博物館もある。それもすり抜けて奥へ進んだ行き止まりに万松院がある。
ガイドは道々、秀吉の朝鮮出兵のときに先遣を命じられた宗家の苦衷を話す。米の獲れない対馬は朝鮮から米を輸入して暮らしを立てていたから、朝鮮に攻め入るのは自らの暮らしの元を絶つようなこと、致し方なく応じたという。
本堂には、大きな宗家の祭壇がおかれていたが、祭壇の手前両脇におかれた大きな提灯の文様が桐の文様だ。えっ、おかしいんじゃないの、これはとおもった。翌日別のガイドが万松院の話を持ち出したときに、これを訊ねたら、ああ、万松院のは五七の桐、、豊臣のは五三桐ですねと、軽く訂正してくれた。ふんふん、なるほど。宗家の祭壇の脇の部屋には「徳川歴代将軍御位牌安置所」と看板を掛けた祭壇が設えられている。これは、どうして?
聞くと、徳川の代になって対馬藩・宗家は朝鮮との和睦応接の役目を拝領し、旧来の関係を取り戻すことができ、なおかつ朝鮮通信使の応接を任された。ことに海外との交易を出島に限った家光の頃から後は、謂わば徳川の朝鮮との外交接待の、謂わば外務省の出先機関。家康に忠誠を尽くし、対馬に東照宮を設ける許しを得、徳川将軍の御位牌安置をする場所までつくっている。
ここ対馬に来ていきなり、ここ四百年ばかりの歴史がすぐ身の脇に息づく気配を感じた。壱岐島では弥生時代の、大らかな、しかし今、帰属は長崎県、通称は博多を通じた福岡県、地理的には最も近い呼子や唐津の佐賀県と分かたれ、しかし米所でもあって、酒蔵が今も七軒も生き延びている壱岐は、太古の在所の面影を残して二千年の時が一つに溶け合っている感触であった。だが対馬は、色濃く四百年前後の激動に振り回された面影が今も残る。
つまりこうも言えようか。壱岐のような通商と異なり、外つ国との外交関係に心を砕いて生き延びてきた「絶島」の気配。壱岐のような、大らかでのんびりとした気配ではなく、苦心惨憺、中央権力の思惑に振り回され、朝鮮の気配に助けられ/脅えてきた対馬。そのような印象を、最初もった。
ところが、ガイドの話を聞くと、その苦心惨憺に思わぬサプライズが仕込まれていた。振り回されていたのが、一転、取り仕切ってきたという驚き。
徳川時代になって、朝鮮との国交が回復すると、朝鮮から徳川の代替わりに通信使がやってきて国書を交わし、京都とか江戸への行列の世話をすることになったのも、対馬藩であった。そのとき宗家はアクロバティックな手を打っていた。
いくら徳川の世になったといっても、秀吉の出兵で憎悪剥き出しの朝鮮と和睦するのを仰せつかった対馬の宗家は、家康の国交回復を希望する国書を持参したとて、そうそう相手が応じるとは考えられなかった。
聞くと、徳川の代になって対馬藩・宗家は朝鮮との和睦応接の役目を拝領し、旧来の関係を取り戻すことができ、なおかつ朝鮮通信使の応接を任された。ことに海外との交易を出島に限った家光の頃から後は、謂わば徳川の朝鮮との外交接待の、謂わば外務省の出先機関。家康に忠誠を尽くし、対馬に東照宮を設ける許しを得、徳川将軍の御位牌安置をする場所までつくっている。
ここ対馬に来ていきなり、ここ四百年ばかりの歴史がすぐ身の脇に息づく気配を感じた。壱岐島では弥生時代の、大らかな、しかし今、帰属は長崎県、通称は博多を通じた福岡県、地理的には最も近い呼子や唐津の佐賀県と分かたれ、しかし米所でもあって、酒蔵が今も七軒も生き延びている壱岐は、太古の在所の面影を残して二千年の時が一つに溶け合っている感触であった。だが対馬は、色濃く四百年前後の激動に振り回された面影が今も残る。
つまりこうも言えようか。壱岐のような通商と異なり、外つ国との外交関係に心を砕いて生き延びてきた「絶島」の気配。壱岐のような、大らかでのんびりとした気配ではなく、苦心惨憺、中央権力の思惑に振り回され、朝鮮の気配に助けられ/脅えてきた対馬。そのような印象を、最初もった。
ところが、ガイドの話を聞くと、その苦心惨憺に思わぬサプライズが仕込まれていた。振り回されていたのが、一転、取り仕切ってきたという驚き。
徳川時代になって、朝鮮との国交が回復すると、朝鮮から徳川の代替わりに通信使がやってきて国書を交わし、京都とか江戸への行列の世話をすることになったのも、対馬藩であった。そのとき宗家はアクロバティックな手を打っていた。
いくら徳川の世になったといっても、秀吉の出兵で憎悪剥き出しの朝鮮と和睦するのを仰せつかった対馬の宗家は、家康の国交回復を希望する国書を持参したとて、そうそう相手が応じるとは考えられなかった。
ふむ、そうだろうなと、日本に対しては気位の高い、今の韓国の世論を思い浮かべる。
そこで当時の藩主・宗義智は国書を偽造したと、ガイドは説明する。
そこで当時の藩主・宗義智は国書を偽造したと、ガイドは説明する。
だが、国書には、返書がある。これも相手国からのものであるから、気位の高さが文面に滲み出るに違いない。宗義智は当然のように「返書」も偽造する。ま、当時の交通にかかる時間と応接を仰せつかった対馬藩のご接待と、当然、それを江戸に報せ、返事を待つ間も十分あったろう。時の流れは悠長であった。
加えて、朝鮮の国書にはそれ独特の文体があり、用いる漢字の癖もあったと、後に訪れる朝鮮通信使博物館で教わった。朝鮮の「国書」を読み取ることもまた、対馬藩のお役目であったことから、偽造の手間暇と技は存分に発揮されたに違いない。何しろかつての往来から、朝鮮文化には通じていたのであった。
ははは、オモシロイ。上に専制権力あれば下に小技対策ありってところか。それにしても、思い切ったことをしたものだ。こうして宗家は、ものの見事に何代かにわたって朝鮮との交通を取り仕切り、幕府もまた、友好的関係を味わっていたのであった。
ガイドは、その後日段を、翌日の朝鮮通信使博物館で聞かせてくれた。
対馬藩の一人の若い藩士が、その有能さゆえに将軍の小姓に取り立てられ、あるとき、その「国書偽造」を幕府に告発した。取り調べが行われ、対馬藩主は「知らぬ存ぜぬ」を言い張ったそうだ。幕府は、そういうこともあったとは受けとめたが、朝鮮との関係を(そうまでして)立て直した功を汲んで、宗家にはおとがめなし。かの若い正義漢には、騒がした罪を着せて、どこかへ追放したというはなしであった。
ははは、これもオモシロイ。まるで、ウソから出たマコト。今の陰謀論の逆転判決ってサプライズが、錯綜して入りくんだ世界の構造をしめすようである。
本堂から石段を130段上って、宗家の墓所に向かう。宗義智の墓が意外と小さく、その子孫の墓が大きい。これも、だんだん胸を張って外交にたずさわる宗家の勢いを表していて、オモシロイと思った。
歩いてホテルへ戻る。戻る途中で、秋にもホタルが出ると記した看板があって、興味を引かれた。対馬固有のアキマドホタル。大陸系のホタルらしい。4センチと、翌日のガイドが話していたから、大きい。これ数匹で本を読んだと言うから、文字通り「蛍の光」だ。いまも9月末から10月上旬にかけてオスは光り飛ぶ。川床もすっかりセメントで固められ、水の流れも僅かなこの水路にもいるという。こんなところに餌になるカワニナがいるのかなと思った。だが、何とかマイマイというカタツムリを食べ、メスは羽もなく飛ばない。水棲ではなく陸棲であるらしい。なるほど。
こうしてホテルに戻り、部屋に荷を置き、落ち着く間もなく夕食へとでかけたのであった。(つづく)
ははは、オモシロイ。上に専制権力あれば下に小技対策ありってところか。それにしても、思い切ったことをしたものだ。こうして宗家は、ものの見事に何代かにわたって朝鮮との交通を取り仕切り、幕府もまた、友好的関係を味わっていたのであった。
ガイドは、その後日段を、翌日の朝鮮通信使博物館で聞かせてくれた。
対馬藩の一人の若い藩士が、その有能さゆえに将軍の小姓に取り立てられ、あるとき、その「国書偽造」を幕府に告発した。取り調べが行われ、対馬藩主は「知らぬ存ぜぬ」を言い張ったそうだ。幕府は、そういうこともあったとは受けとめたが、朝鮮との関係を(そうまでして)立て直した功を汲んで、宗家にはおとがめなし。かの若い正義漢には、騒がした罪を着せて、どこかへ追放したというはなしであった。
ははは、これもオモシロイ。まるで、ウソから出たマコト。今の陰謀論の逆転判決ってサプライズが、錯綜して入りくんだ世界の構造をしめすようである。
本堂から石段を130段上って、宗家の墓所に向かう。宗義智の墓が意外と小さく、その子孫の墓が大きい。これも、だんだん胸を張って外交にたずさわる宗家の勢いを表していて、オモシロイと思った。
歩いてホテルへ戻る。戻る途中で、秋にもホタルが出ると記した看板があって、興味を引かれた。対馬固有のアキマドホタル。大陸系のホタルらしい。4センチと、翌日のガイドが話していたから、大きい。これ数匹で本を読んだと言うから、文字通り「蛍の光」だ。いまも9月末から10月上旬にかけてオスは光り飛ぶ。川床もすっかりセメントで固められ、水の流れも僅かなこの水路にもいるという。こんなところに餌になるカワニナがいるのかなと思った。だが、何とかマイマイというカタツムリを食べ、メスは羽もなく飛ばない。水棲ではなく陸棲であるらしい。なるほど。
こうしてホテルに戻り、部屋に荷を置き、落ち着く間もなく夕食へとでかけたのであった。(つづく)