mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

草茅の八十路の植物的感懐

2024-10-10 08:15:56 | 日記
 昨日は本降りの雨。それなのに、車で赤城自然園に行った。師匠の草友案内で、一回りも若い人たち二人とご一緒するアッシー君。師匠はどうしようかと何日か前からやきもきしていた。
 1週間前の予報では、火曜日も水曜日も関東地方は雨。だが、前橋は水曜日は曇り。やった~と師匠は喜んで実施日に決めた。若い人は、仕事のお休みを取っている。ところが3日前になって前橋の降水確率が高くなる。2日前予報、とうとう80%になった。降水量も4mmと多い。いえいえ、年休が余ってますからお気遣い無くと若い人は言ってるそうだ。でも、せっかくお休みを取ってくれたのにと師匠は迷う。
 この気遣いって「忖度」か? ちょっと違うんじゃないの。「慮る」ってところかな、と考えるともなく寝床で思った。起きて辞書で引いてみる。大野晋の古語基礎語辞典には、どちらも、ない。日本国語大辞典では、「忖度」の「忖」も「度」も「はかる」とあった。つまり、「忖度」は推量するばかり。だが、「慮る」は「思いをはかる」と、心持ちを推し量ることを示しているか。
 えっ? 「忖度」だって、推し量るんじゃないのといわれそう。だがさて、「はかる」が二つも重なっているのは、何を推し量るか? 相手のことと我がことと状況と事後の成り行きと、思いをあれこれ致してみると、必ずしも向き合っている相手の心持ちを推し量ると限定することはできないかな。ははは。そんな埒もないことを、思い浮かべる。
 朝8時、駅でお二人を迎え、関越道を走る。外環道も、関越道も、いつもより車の数が少ない。スピードも2割減。80km/hくらいだが、速度感は十分速いって感触。人の感じ方って、わからないもんだ。北へ行くほど、雨は少なくなるようにもおもったが、降りそのものは変わらず本降りであった。
 いつも同様というか、概ね10時頃に到着。傘を差して歩き始める。
 自然観察園は舗装歩道にも土が降り積もっているのを取り払わない。そこへ雨が降り注ぎ、たっぷり水を含んだ泥土は、踏むとズブリと沈むほど。師匠と私は長靴。水溜まりもものともせずに歩いたが、若いお二人は短靴。地面が柔らかいかどうかをいちいち確かめるように進む。
 ところがこの人たち、雨をものともせず植物とその談義に夢中。雨の所為もあろう、目が年老いた所為もあろう。(私の目には)薄暗い。秋模様というよりは、もうすっかり晩秋のような気配を湛えているが、紅葉はやっとはじまったばかり。少しばかりのモミジとオミナエシの色変わり。暗い草木は紅葉には似つかわしくない。
 先月は暑い中、自然生態園までいって、その一番奥でお昼を摂ったのに、昨日は、自然生態園の入口にあるナナフシ橋を渡ったところの東屋で昼食となった。それほど、のんびりとというか、ゆっくりと草木をみてほどを進める。なんでしょうね、この人たちの心裡の執着心と内発的な活力は、とおもった。
 終了間際、陽光が樹幹を抜けて降り注ぎ、枝葉に着いた雨粒をきらきらと輝かせながら、濡れた道筋を照らしてきた。
 4時間以上歩き、3時頃に自然園を出発。帰りの道路は混むことなく、乾いている。スムーズに車は流れ、行きの2時間より速く、1時間45分で駅に戻った。
 そこで一人の若い人が、途中立ち寄った高速道路PAのトイレに財布を忘れてきたことに気づいた。えっ、どうして財布を置いてくるんだと私はおもった。もう一人の若い人がスマホで調べてそのPAの電話番号を調べている。あとで「見つかった。明日取りに行く」と安堵のメールが師匠に入った。師匠は「他山の石とします」とメールで返信して「良かったあ。日本て、見つかるんだね」と言祝いでいる。そうだね、そうやって、植物的に自賛して培ってきた気質なんだよね、何となくワタシはその気質が植物とつながっているように感じて、おもっていた。