十月になった。白馬にいて「震度5弱」で感じとった能登の大地震ではじまった今年が、もう4分の3を終えた。早いなあ、時の過ぎるのが。そう感じるのは、なぜだろう。
「とき」の密度が薄いからなのかもしれない。
「とき」はワタシの外と内の交信の密度の「感触」として意識される。そう、私はおもっている。外と内の交信密度が濃いときは「時を忘れる」。これは、自他とか、内と外の区別がつかない状態といえようか。
「とき」の密度が薄いからなのかもしれない。
「とき」はワタシの外と内の交信の密度の「感触」として意識される。そう、私はおもっている。外と内の交信密度が濃いときは「時を忘れる」。これは、自他とか、内と外の区別がつかない状態といえようか。
歳をとると、身の習いとしても、我を忘れるということがない。いつも何かに照らしながら、わが身(の位置)をみている。デジタル用語でいえば、マッピングしている。わが身を超越的に見る何かを措定している。
身に堆積する無意識が、内外の交信を受信するとき、それを経験済みとして承知することが多くなる。本で読んでいても、映像で観たことも、あるいは身の裡の妄想が行き届いていたことでも、デジャヴの感触が付き纏う。出喰わす事象の新鮮さがなくなるといえば、なくなるのだが、「新鮮さ」というよりも、出喰わした事象を腑に落とすときの、文法や地図をとらえるのに、新たな脳作業を要しないということのような気がする。
幼い子どもにとっては、耳にする音や言葉、目にする事物や光景などのことごとくが、謂わば初見のコトである。それらが、どういう関連で所在して現象しているのかをつかみとるのに、地図と構造を描かねばならない。それは身の裡にセカイを形成することと一体化している。これは、子どもの身の内から観ると、内外が感知され、自他が分岐し、「わたし」が誕生するプロセスでもある。外部の「発見」であり、「他者」の存在を感知することであり、すなわち「自己の発見」である。それはいずれ、その地図と構造の図柄が描かれると共に、それの変遷を感知するようになる。「とき」が身の裡に生まれる。いや、そうであったと、今わが身を振り返ってそう考えている。
しかし、「自己を発見」は、一回性のことではない。「外」を知ることが即ち「内」を知ることでもある。「他者」にであうことは「自己を発見」することでもある。
ただそうしたことが、感官を通して身の裡に取り込まれる。モノやコトは、わが身との関わりを通して登場してくる。関わりのないモノやコトは存在しない。食べるモノ、飲むモノ、動くモノ、遊ぶモノなど、わが身とのかかわりとは、ワタシにとっての存在の意味。それが付与されている。すなわちモノやコトの存在には物語りが付き纏っている。
幼い子どもにとっては、耳にする音や言葉、目にする事物や光景などのことごとくが、謂わば初見のコトである。それらが、どういう関連で所在して現象しているのかをつかみとるのに、地図と構造を描かねばならない。それは身の裡にセカイを形成することと一体化している。これは、子どもの身の内から観ると、内外が感知され、自他が分岐し、「わたし」が誕生するプロセスでもある。外部の「発見」であり、「他者」の存在を感知することであり、すなわち「自己の発見」である。それはいずれ、その地図と構造の図柄が描かれると共に、それの変遷を感知するようになる。「とき」が身の裡に生まれる。いや、そうであったと、今わが身を振り返ってそう考えている。
しかし、「自己を発見」は、一回性のことではない。「外」を知ることが即ち「内」を知ることでもある。「他者」にであうことは「自己を発見」することでもある。
ただそうしたことが、感官を通して身の裡に取り込まれる。モノやコトは、わが身との関わりを通して登場してくる。関わりのないモノやコトは存在しない。食べるモノ、飲むモノ、動くモノ、遊ぶモノなど、わが身とのかかわりとは、ワタシにとっての存在の意味。それが付与されている。すなわちモノやコトの存在には物語りが付き纏っている。
地図や構造を思い描くとき、「関係」が浮き彫りになる。だがモノやコトがわが身にやってくる順序を考えてみると、まず、言葉が飛び込んでくる。そのモノやコト(の言葉)が出現したことの醸しだす場の気配が、最初に受けとる意味になる。たぶん子どもであるワタシは、食べるとかおしめを替えてくれる快適さと行った本能的に了解してしまうところ以外は、笑う、喜ぶ、悲しむなど、感官の受け止める「かんけい」をそのままに受けとり、脳作業の中でイミとして定着させる。分節化である。大きくなるにつれて、そのイミは「かんけい」の地図となり構造となって、ワタシのセカイを形づくっていく。つまり、ワタシの胸中のイミもまた、「とき」を経て変わってくる。
すべてがワタシであった世界が、自他と内外に分岐・分裂・分節化していくことが成長である。その大半は人の無意識という自然である。意識することの基本は、事後的に腑に落とされる。
すべてがワタシであった世界が、自他と内外に分岐・分裂・分節化していくことが成長である。その大半は人の無意識という自然である。意識することの基本は、事後的に腑に落とされる。
その径庭がワタシという人類史的歩みの集積であると意識されたとき、ワタシは空っぽという実感が湧き起こる。それと同時に、そのヒトが意識するという宇宙的に最大の外部である「とき」が、身の裡に浸入していることを実感する瞬間でもある。そう、八十路爺のワタシは意味づけている。
かつて「とき」も含め、世界は混沌としてわが身と分かちがたく存在していた。それが私が生まれると共に世界が分かたれ、その変容が見て取れるようになった。そのとき、「とき」は外部にあった。それが年齢と共に、外部にあった「とき」が、変容するわが身をも一貫してとらえる意識によってわが身の内部に入り込む。そう実感することができるようになって、ふと気づいてみると、神無月。
皮肉なものだ。外部にあってワタシとは無縁と思えていた「神」がわが身のセカイに見事に浸み込んでいる。混沌そのものが「神」であり、それが「無」でもあるという俚諺のイミする十月。その十月になった。
皮肉なものだ。外部にあってワタシとは無縁と思えていた「神」がわが身のセカイに見事に浸み込んでいる。混沌そのものが「神」であり、それが「無」でもあるという俚諺のイミする十月。その十月になった。
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