mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

海外交易の島々(2)半世紀の移り変わり

2024-10-05 09:08:54 | 日記
 壱岐につづけて対馬について書こうとしていたが、大腸の内視鏡検査があったり、壊れたHDDのデータ修復がなされてきて、半月ほど放りだしていた「コトの始末」をつけたりしたために、「離島の旅」のことに手をつけられずにいました。
 さて、離島の旅の第2日の午後。
 壱岐の島を出て、今度はフェリーで70kmほど向こうに見える対馬へ向かいました。博多港から壱岐の郷ノ浦に向かうときは、ジェットフォイル。座席に座ってシートベルトを締める。塩水でくもった窓を通して見えるのも水面の上。博多港を離れると空の雲とときどき飛び散る水しぶきという景色。わずか70分という航行時間が救いであった。壱岐島が見えたときはホッとした。
 それに対しフェリーは、半分ほどの速度。甲板に出て水面を見ていても飽きない陽気だ。カミサンはトビウオとオオミズナギドリをみたよと、うれしそうだった。私は船室でドジャースとパドレスの最終戦実況中継をTVで見ていて、ドジャースのリーグ優勝に立ち会うことになった。
 対馬の厳原港に着いた。ツアー会社が手配していたタクシーに分乗してホテルへ向かう。賑やかな通りと街並みに、ちょっと驚く。何だ私の住む東浦和などは比べものにならないくらいの都会って感じに、意表を突かれた。離島じゃないよ、これは。そう思った。
 対馬にもっていた私の第一印象は、宮本常一の『私の日本地図――壱岐・対馬紀行』(同友館、1976年)。昭和25年頃から昭和49年頃まで何回も壱岐・対馬に渡り、学術調査をした記録である。いや、八学会調査とか九学会調査という名を冠した学術調査が発端だったが、宮本常一の書き記した内容はまったく「学術」イメージと異なっていた。
 彼の著書『忘れられた日本人』同様に、その土地に暮らす人々の様子を目に留め、子細に記す。そればかりか、その土地の人たちと語り合い、生活の事情をどう改善するか、暮らしを変えるための栽培作物をどうしたらいいか、漁業で暮らす人たちには、どうして旧態依然の困窮生活しかできないのか、協同組合を作ることをサジェストしたり、漁港を整備したりするのに、島の役所ばかりか、県や国の役所に話しを繋げて対応したりと、八面六臂の活躍をしている。しかも10年ごとのその変化に目を留め、さらに何が必要であるかを土地の人々と語り合っている。
 私はこれを読んだとき、思わず四国に於ける空海を思い浮かべていた。そうだ、空海の修業時代の四国に於けるお遍路と活動は、まさしくこのような暮らしを支援する具体的な知恵と知識を動員した生活改善活動であったのではないか。宮本常一は民俗学の調査をした人くらいにおもっていたが、そうじゃないんだ。時代の空気もあろうが、学問研究が、間違いなく人々の暮らしと結びつき、人々もまたそれを信じ頼りにすることで、アカデミズムの権威を腑に落とすという、見事な社会的コミュニケーションの回路が形づくられているとおもったものだ。
 今のアカデミズムは、まったく学者・専門家の生業となってしまっている。人々の暮らしの変化と結びつくのも、資本家社会的市場を経由してでなければ、適わぬものになっている。そんなことを考えさせられたこともあった。
 話を元に戻す。宮本常一の対馬に関する記述で印象に残っていたのは、山と谷によって集落は小さく分かたれ、海に面した狭い川口の平野部に散在する。そのひとつの集落から隣の集落へ行くときに、道に迷ってしまう。お~い、お~いと呼ぶ声に導かれて、辛うじて迷子にならずに済んだ話。じつは地元の人でもときどき迷うと、あった。暗くなって帰ってこない集落の人を探しに他の人々も山へ入る。迷った人が歌う馬子唄が聞こえ、こちらも呼応する唄を歌ったりして探し出すということであった。みな歌う声がよく通ると記している。照葉樹と針葉樹の密生する深い森、山と緑の島というのが対馬のイメージであった。
 それについては『魏志』の倭人伝にも、こう紹介されていると、司馬遼太郎が引用していた(司馬遼太郎『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』朝日文庫、1985年)。

《……絶島。方四百里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径のごとし。千余戸あり。良田無く、海物を食らって自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す》

 とある。糴は、《「テキ」と読み、「米を買い入れる」ということから「交易」を意味する》と、魏志倭人伝の解説をしているサイトにあった。だから私は「離島」とも思っていたのだ。
 ところが、厳原の街並みは違った。高層ホテル前の大通りには電信柱がない。向かいには5、6階以上はあったろうか、高い駐車ビルが建つ。その脇には大きなAEON・マックスヴァリューが軒を連ね、スーパーやコンビニが並んでいる。これもまた、東浦和よりもはるかに大都会って感じ。ま、この半世紀で、日本全体が似たような街並みになってしまったということかも知れない。
 ガイドの話では、対馬のこの景観は、まったくここの数百メートルだけ。あとは山と谷とその合間に集落が建ち並ぶ。人口は、いっときは7万人ほどあったが、今は2万5千人。この厳原に6千人が住むという。歴史的遺蹟は、ほぼここに集中している。
 それもあって、到着した日とその翌日の「観光」は、いずれも徒歩。日程が詰んでいたこともあって、その後にバスで4時間ほど対馬の南半分を巡った。
 対馬は、島の中ほどがリアス式のフィヨルドのように大きくくびれて、南北二つに分けられる。東西の幅は10kmほど。島南北の中央部はつながってはいた。宮本常一の訪ねた頃の記述では、小舟越という地名のところは入りくんだフィヨルドの西側と東側がわずか何メートルということで、船を引いて西と東を往き来していたとあった。今回訪ねてみると、その間は開鑿されて東西の海がつながり、橋が掛けられている。長さ200mほどの橋の下は押し寄せる対馬海流の勢いも交えて、東から西へ滔滔と潮が流れていた。干満によって流れは変わるのかもしれない。同じように、少し南には大船越という地名の処もあり、ここも、高いところに橋が掛けられ、小船越よりももっと大きな船が往き来できるようになっていた。
 宮本常一や司馬遼太郎が訪ねた1970年代半ばから半世紀にもなる。一億総中流の面影が、こんな形でここにも及んでいたと言えようか。(つづく)

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