今日は重陽の節供。といっても菊を献じて祝うには、まだ熱波が立ち去らず、十日の菊のような気配が色濃く漂う。一昨日も昨日も、35℃を超える中を6.5kmほど歩いて、図書館へ寄り、その先へ買い物に行った。汗びっしょり。気持ちが良いくらいの暑さであった。一日中、水分摂取を怠りなく用心していたが、昨夜は一度もトイレに行くこともなく9時間も寝続けた。寝る体力があることに感謝したい心持ちが湧いてくる。
じつはここ一週間ほど、知人の依頼に応じようとデスクに向かっている。まだ現役の教師であるKさんから、400字詰め原稿用紙で140枚ほどの「文書」が送られて来た。彼は8月末に予定されていたささらほうさらの合宿でそれを発表して、皆さんの意見を聞きたいと考えていたようであった。台風接近のせいで合宿が中止となり、その「文書」が郵送されてきて、「値踏みして欲しい」と依頼が添えてあった。
教師の仕事がブラックである本当の理由という趣旨のタイトルが記された「文書」は、A4版にタイプされ、35ページ。もう現役を去っている私としては、あまり食指が動かない。放っておこうと思ったのだが、ちょうど三日間ほど旅に出る機会があったので、その「文書」を持参し、電車の中や宿で読み進めた。チャールズ・ダーウィン『ミミズと土』に《そういえば《法はささいなことにこだわらず》という格言がある》とあったのを思い出し、ワタシにとって些末に思えることを削り取り、Kさんが言わんとするところを摑もうとするが、どうもうまく行かない。
旅から帰って一週間。ぼんやりと思いつくことをメモし、そうしている内に、Kさんとワタシの間の大きなギャップを伝えた方がいいとおもいついた。それで、ここ一年ばかりの間に記したエッセイ三本を、日をおいて3回に分けてメール送信し、「前菜」として目を通してもらっている。
そろそろ、なんとかまとめなくてはならない。昨日はほぼそれに集中し、A4版で6ページほどを書き落とした。書いているうちに私が経てきた学校現場のいろいろな場面が、思い浮かぶ。1960年代後半から1970年代全般のこと。
「金の卵」と呼ばれた人たちがわんさといる間は、夜間とは言え高校という教育レベルが(教師にも生徒にも)二次的に扱われることはなかった。古い時代の(つまり私が経験した)学校教育観が社会的にも通用した。
だが、1973年のオイルショック以降、「金の卵」が消え失せ、加えて(首都圏の一角で)第二次ベビーブームの子どもたちが高校進学をするころになって全日制からあふれ出すようになって、夜間高校の様相はがらりと変わった。その変化を(当時すでに)十年ほどみてきた私からすると、時代の移り変わり、社会の変容、私たち庶民の暮らしの変化が、子どもたちの姿を通して、後期中等教育という場面に押し寄せてきていることを、日々一つひとつの場面で痛感させられたのであった。
そうだ、思い起こすと、それは単に子どもが変わってきているという実感でもなかった。もしそうなら、その変化はいつまでもワタシの外部の移り変わりに過ぎなかったろう。古い教育で育ったワタシってなんだと、繰り返し自問が湧いてくる日々の体感が、大きかった。つまり激変していると感じられる生徒の存在が、(それを激変と感じとっている)ワタシとは何なのかと自問し自答するほかない切実さを伴っていたのであった。
たとえば、私より十年ほども後に着任してきた若い女性の数学教師は、(数学どころか教室の秩序を維持することに精一杯の現場をみて)「こんなことを教えるために勉強してきたのじゃなかったのに」と涙を流して愚痴をこぼしていた。そうだよそれが現在の(定時制の)高校教師だよと遣り取りしたのが思い浮かぶ。
アル中の父親が「娘をどこへ隠した」と(担任である私のところへ)怒鳴り込んできたこともあったなあ。そういえばあの子も、もう還暦を迎えているんじゃないか。いやそうじゃない。もう前期高齢者になっているころだ。寝ている間にもそんなことが思い浮かんでくる。
教師って、何を教えていたんだろう。この感懐を、今の時代の現場にいるKさんに伝えるには、どういうことばを遣うことができるのだろう。彼は「値踏み」と表現したが、何を値踏みするのか。市井の八十路老爺が「読むに値することかどうか」を値踏みすることならできなくはないが、Kさんの期待はそうではあるまい。いや、値踏みするという表現自体が似つかわしくない。そんなことをぼんやり思ったりしながら、また今日もパソコンに向かっている。
おや、天気が今日は、崩れるのかな。ひょっとしたら涼しくなるのかもしれない。そうだ今日は、重陽の節供。涼しい季節がやってきたとよろこぶことができれば、もうそれだけでシアワセ。さあ今日も、頑張ってわが人生を振り返ってみましょうか。
じつはここ一週間ほど、知人の依頼に応じようとデスクに向かっている。まだ現役の教師であるKさんから、400字詰め原稿用紙で140枚ほどの「文書」が送られて来た。彼は8月末に予定されていたささらほうさらの合宿でそれを発表して、皆さんの意見を聞きたいと考えていたようであった。台風接近のせいで合宿が中止となり、その「文書」が郵送されてきて、「値踏みして欲しい」と依頼が添えてあった。
教師の仕事がブラックである本当の理由という趣旨のタイトルが記された「文書」は、A4版にタイプされ、35ページ。もう現役を去っている私としては、あまり食指が動かない。放っておこうと思ったのだが、ちょうど三日間ほど旅に出る機会があったので、その「文書」を持参し、電車の中や宿で読み進めた。チャールズ・ダーウィン『ミミズと土』に《そういえば《法はささいなことにこだわらず》という格言がある》とあったのを思い出し、ワタシにとって些末に思えることを削り取り、Kさんが言わんとするところを摑もうとするが、どうもうまく行かない。
旅から帰って一週間。ぼんやりと思いつくことをメモし、そうしている内に、Kさんとワタシの間の大きなギャップを伝えた方がいいとおもいついた。それで、ここ一年ばかりの間に記したエッセイ三本を、日をおいて3回に分けてメール送信し、「前菜」として目を通してもらっている。
そろそろ、なんとかまとめなくてはならない。昨日はほぼそれに集中し、A4版で6ページほどを書き落とした。書いているうちに私が経てきた学校現場のいろいろな場面が、思い浮かぶ。1960年代後半から1970年代全般のこと。
「金の卵」と呼ばれた人たちがわんさといる間は、夜間とは言え高校という教育レベルが(教師にも生徒にも)二次的に扱われることはなかった。古い時代の(つまり私が経験した)学校教育観が社会的にも通用した。
だが、1973年のオイルショック以降、「金の卵」が消え失せ、加えて(首都圏の一角で)第二次ベビーブームの子どもたちが高校進学をするころになって全日制からあふれ出すようになって、夜間高校の様相はがらりと変わった。その変化を(当時すでに)十年ほどみてきた私からすると、時代の移り変わり、社会の変容、私たち庶民の暮らしの変化が、子どもたちの姿を通して、後期中等教育という場面に押し寄せてきていることを、日々一つひとつの場面で痛感させられたのであった。
そうだ、思い起こすと、それは単に子どもが変わってきているという実感でもなかった。もしそうなら、その変化はいつまでもワタシの外部の移り変わりに過ぎなかったろう。古い教育で育ったワタシってなんだと、繰り返し自問が湧いてくる日々の体感が、大きかった。つまり激変していると感じられる生徒の存在が、(それを激変と感じとっている)ワタシとは何なのかと自問し自答するほかない切実さを伴っていたのであった。
たとえば、私より十年ほども後に着任してきた若い女性の数学教師は、(数学どころか教室の秩序を維持することに精一杯の現場をみて)「こんなことを教えるために勉強してきたのじゃなかったのに」と涙を流して愚痴をこぼしていた。そうだよそれが現在の(定時制の)高校教師だよと遣り取りしたのが思い浮かぶ。
アル中の父親が「娘をどこへ隠した」と(担任である私のところへ)怒鳴り込んできたこともあったなあ。そういえばあの子も、もう還暦を迎えているんじゃないか。いやそうじゃない。もう前期高齢者になっているころだ。寝ている間にもそんなことが思い浮かんでくる。
教師って、何を教えていたんだろう。この感懐を、今の時代の現場にいるKさんに伝えるには、どういうことばを遣うことができるのだろう。彼は「値踏み」と表現したが、何を値踏みするのか。市井の八十路老爺が「読むに値することかどうか」を値踏みすることならできなくはないが、Kさんの期待はそうではあるまい。いや、値踏みするという表現自体が似つかわしくない。そんなことをぼんやり思ったりしながら、また今日もパソコンに向かっている。
おや、天気が今日は、崩れるのかな。ひょっとしたら涼しくなるのかもしれない。そうだ今日は、重陽の節供。涼しい季節がやってきたとよろこぶことができれば、もうそれだけでシアワセ。さあ今日も、頑張ってわが人生を振り返ってみましょうか。
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