mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

知識は何を足場にして存立するのか

2017-03-20 20:34:20 | 日記
 
 今月の「ささらほうさら」の講師は長く理科教師を務めてきたWさん、テーマは《天変地異とホモサピエンス》。A4版9枚のペーパーを用意していた。大きく分けるとテーマは三つ想定されていたと考えられる。
 
(1)人類史と天変地異――自然との闘い、
(2)日本の直面してきた天変地異――台風・大震災・津波・火山噴火、
(3)東日本大震災における福島原発事故とそれへの対応。
 
 いずれも直近の、あるいは近々に日本を見舞う(と考えられている)「災害」を取り上げて、人々がどう対応していたかを解析していく、と思われた。
 
 だが、その冒頭で《周期的に訪れる天変地異により、さらには地球温暖化の影響も強まる中で、高度な文明社会が破たんする日が近いかもしれない。》と大上段に振りかぶって「危機を煽る」から、話しが飛んでしまったのではないか。そう私には思えた。言葉を換えると、TVのワイドショーのように「問題」への関心を煽り、思考軌道をわがものに取り込んでもっていこうとしている、と言おうか。聴くものにあまりモノを考えさせないやり方である。
 
 では、どこにもっていこうとしたのか。それが不分明なのである。講師・Wさんの関心自体が散乱してどこに焦点を絞っているのかわからないようであった。
 
 たとえば(1)に絞れば、直近の氷河期が「わずか10年ほどの間に突然終了した」ことを軸に据えるかにみえた。氷河期のメカニズム、それ以前とそれ以後の人類史的な差異、それ以来の間氷期がいま終わる時期に来ているのかどうか、それと地球温暖化と言われていることとの関係と、地球科学的な探究に進み、それと人類史のこれからを鳥瞰する面白さが浮かび上がる。あるいは、人類と大自然との向き合い方がどうであったかという哲学への道も拓かれる。だが、そうはならなかった。「氷河期の突然の終結」は、単なるトピックとして触れただけで通り過ぎる。
 
 あるいはたとえば、(2)に絞れば、プレートテクトニクス理論に基づく関東と駿河にぶつかり合う4枚のプレートと、その潜り込みの様子を図示したプリントが用意されている。プレートテクトニクス理論の概論ではもぐりこみということだけしか触れていないのに、Wさんの図は、潜り込みの接線部分(トラフ)を示すだけでなく、潜り込みの深浅ともぐりこむ距離とそれがもたらすひずみの部分を6カ所に分けて示し、それぞれについてM8級の、あるいはM7級の大地震が起こると指摘する。ふむ、それで? と聞きたいところだが、これについては、大きな災厄が起こるという「予告」に終わる。予知ができるかどうか、予知のメカニズムの詳細というわけでもない。来るべき「大きな災厄」の、具体的な様子がどのようなことなのか、でもない。私たちがそれにどう備えるのかという話に展開する兆しもない。
 
 同じ(2)に関して「生育歴の中での災害の記憶」として、Wさん自身が体験した、いくつかの台風被害(洞爺丸台風、伊勢湾台風、スーパー台風)の記述、チリ地震津波における三陸大船渡の様子、明治三陸地震津波、新潟地震、十勝沖地震などなど9件の記述も、その体験が彼自身のどのような輪郭の発見に至ったのかには踏み込んでいない。単なる「記憶」ですと放り出されてあるように見える。いわばTVのニュースフラッシュみたいなものであった。もし私が書きおくならば、たとえば、2、3歳のころの戦争体験という「災厄」が12歳ころまでの悪夢として持ち越され、それがわが身に刻んだ「記憶」として、どうアイデンティティの一角を占めているかに言及するに違いない。つまりWさんにとって体験した「災厄」は、通り過ぎていった風景みたいなものと感じられているのではなかろうか。彼の身体に痕跡を残していないようなのだ。
 
 なんと言えばいいのか、Wさんにとっては「災厄」そのものがみえているようなのだ。たぶん彼の心中では、客観的な事実、誰が見ても同じものは同じにとらえることのできる「事実」というのかもしれない。だがそこでは、彼自身の身がもっている傾きは抽出されない。言葉を換えて言うと、彼自身が当然と考えていること(や考えてもいないこと)はそのままに肯定されて、彼の思考の展開に組み込まれているのであろう。
 
 ま、上記のようなことを考えていたら、新聞の書評欄に佐倉統という書評氏が『クラウド時代の思考術』という本の紹介をしている中で、次のようなことを書いている。
 
 《厄介なことに知識があれば事足れりというわけではない。地球温暖化のような複雑な現象になると、むしろ科学的知識の豊富な人ほど、自分の政治イデオロギーに適した解釈を下す傾向が強い。知識がイデオロギーを補強する役割しか果たさなくなるのだ。》
 
 つまり、自分がどこに足場を置いて物事を見ているかということを、片時も忘れてはいけないはずなのに、「科学的知識」はその足場を常に崩して物事を見る目を養い続けている。それに長く浸ってきた人は、自らの足場を「普遍」においてしまうために、自らの思考から「足場」が蒸発し、興味関心という探究心ばかりが単独先行して、「こと」が乱反射してしまうのではないか。だから、「モノゴト」自体がみえているという錯覚に浸り、「だからどうなの?」という足場を元にした人の疑問が入り込む余地をもたないのではないか。
 
 これは、「欲望」のひとつの形なのであろうか。ひょっとすると、近代の「普遍」の極まったかたちなのではなかろうか。そんなことを考える端緒になったように思う。

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