mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

炎暑の目眩

2024-08-12 08:36:53 | 日記
 暑い。外に出なければ、そうは感じないのだが、往復7キロほどを歩いて買い物に行ったから、予報の「39℃」というのを体験したのかもしれない。日陰を辿って歩くといっても道は南北に真っ直ぐ。建物の陰も身を入れるほど大きくない。それでも、苦痛に感じないのは、私がすでに亜熱帯人になってきているのかもしれない、とおもう。
 信号待ちをするときには、コンビニの陰に入って手持ちのペットボトルを取り出す。往復で500mlを空けるくらい飲むように努めている。首に掛けたタオルが汗を拭うのに都合が良い。ははは、いつだったか、まるで田舎の年寄りだと口にしたら、カミサンに「田舎をバカにしなさんな」と叱られたなあ。
 カミサンは今日、高尾山へ植物観察に出かけている。なんでも歩くのに難儀するようになった師匠筋の方が、久々に一緒に歩いてくれるという「案内」がきて、三番瀬での探鳥と暑気払いの会を袖にして、出かけていった。八十路の老婆が炎暑の中、こうしていそいそと出歩くというのも、元気の証し。
 ところが私、夜中に目を覚ましてトイレに行こうとしたとき、なんだか身体がふらりと揺らいだ。おっ、おっ、こんなことは初めてだな。お酒を飲みすぎたわけでもない。なんだこれは。暑さで水分が足りないと身体が安定しないことって、あるのか。
 そして朝、目が覚め起き上がったとき、またふらりと身体が揺れる。傍らの床柱を摑んで、倒れるのを防いだ。三半規管が不具合を起こしているのか。昼間の炎暑にふらふらするってのはわからないでもないが、昼間の元気が、夜のしっぺ返しになっているのか。
 この目眩が歳の所為なら、ぼちぼち山歩きも控えなければならないのかもしれない。もし山を歩いている途中でこの目眩が来たら、岩場のような所は危険だ。細い斜面をトラバースするのも、危ない。ただそれが、水分摂取の所為とか、高い気温にどう適応したかどうかというのなら、対処のしようがある。でも、たぶん医者は、この問いには応えてくれるまい。
 仕方がない。この揺れる身体を感じ続けて、上手に身を馴らしていくほかない。つまり、原因はわからないが、実際的場面への適応にはマッチするような身のこなしの技法を習得する。科学ではなく技術。因果を摑む理論ではなく、実際運用をこなす経験主義。そうだね、庶民は長年の人生の中で、理屈をともかくとして身も心も巧く適応させて生きてきた。その経験的に身に付けた技法は、たぶん、アタマで刻んできた理知的な知意識よりは優れものだと、ワタシの経験知が感じとっている。
 つまりこの程度に、八十路の爺は我が人生を肯定的に受け入れているのだ。
 などとおもっていたら、ぐらりときたのが、南海トラフの大地震注意報。おっ、いよいよ来たかと、去年歩いた四国八十八個所の高知県の海岸沿いを思い出した。マグニチュード7・2だそうだ。今後二、三日から二、三年の間に、それよりもマグニチュードの大きいのが来るとTVの報道も、「いよいよ本番」という気風。なにしろ、マグニチュードが「1」上がると、揺れは32倍になるとどこかで目にしたことがある。それが「2」あがると、おおよそ一千倍の揺れ。そりゃあ尋常ではない。
 初めは、海水浴も禁止という。おやおやこれで二年も用心するのは難しいなとおもっていたら、高知では「よさこい祭り」をしているそうだ。用心をして、もし地震が起これば、すぐに避難する態勢は整えておく。ふむふむ、さすがコロナ禍を経験しただけのことはある。
 基本は、わが身は自分で護る。行政に依存しない。一律の規制はしない。やってくる災禍を(避ける)排除するというよりは、共存する感覚で対応する。これが、COVID-19によって鍛えられた日本庶民の経験知だ。行政や専門家には、情報を提供してもらう。それをどう読み込み、どこでどう対応するかは自分で考える。そう、そういう主体性を持った自律精神こそが、現代的な市民社会の自由な在り様だ。
 ふむ、炎暑の目眩が、そこまで及ぶか。ま、いいか。