mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

レトリックか歴史の解明か

2024-08-09 05:12:13 | 日記
 昨日(8/8)の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」欄は、「歴史学者・山田朗さん」へのインタビューが掲載されていた。昭和天皇が先の戦争(大東亜戦争など)への「主体的な関与をしなかった」かどうか、「対米英戦を回避しようとした」かどうかを子細に調べてきた明治大学の教授。そう紹介してはじまっている。要点は、次のようになろうか。

(1)側近の日記や軍の記録、大元帥として出席した大本営御前会議での発言を調査している。
(2)上記の「資料」から、天皇の開戦に対する心裡の推移を見ていて、当初「躊躇してい」たものが、「戦争への覚悟を決めてい」き、「最終的には天皇は開戦を決断した」と結論している。
(3)開戦後は、「ガダルカナル島攻防戦で、航空部隊を現地へ送るよう3回にわたって、出撃を渋る陸軍に督促してい」るとか、「45年の沖縄戦では……積極的な攻撃に出るよう要求し」、(持久戦を決めていた現地軍は)「中途半端な攻勢が行われ、無用な出血につなが」ったと、作戦指導していたことを記している。
(4)それだけでなく「戦争指導」していたとも。「戦争指導」とは《単なる軍事作戦指導とは異なり、外交などの政治戦略と軍事作戦を束ねた、より高次の指導》を指す。日本軍の戦い方によって「第三国にも動揺が広がってしまうと言って積極攻勢を求め」たと。
(5)なぜ昭和天皇は、そう(上記2~4を)したのか。記事は、陸軍と海軍を統合する指導機関が存在せず、「大日本帝国が抱えた構造的な欠陥の深刻さに気づき」昭和天皇が身を乗り出さざるを得なかったと、この学者が推論していることを書いている。

 なるほど、上記の考察は、おおむね私などが戦後抱いていたイメージをあとづけるようである。
 では、なぜ敗戦後の占領下で、天皇の戦争責任が問われなかったのか。それについてインタビューは、二つの点を指摘している。
①「米国が占領統治のコストを下げるため」、
②東京裁判前から、「昭和天皇は平和主義者で戦争責任を問われるべき人間ではないとのイメージづくりが、政府などによって進められ」と。
 ②は、所謂国体を護るためではなく、「戦争は陸軍強硬派が進めたものであって、天皇には止める権限がなかったというストーリーをつくることで、海軍主流派や外務省・内務省の官僚らは自らを『天皇の側にいた者』とし、責任追及を回避できた」からだと。なるほど、戦後政治の主力を担ったのが、その人たちだったところまで考えると、これも説得的である。
 記事は、さらに5年前に公開された(初代宮内庁長官・田島道治の)「拝閲記」を解析し、「昭和天皇の中で『誰がどうやっても戦争の流れを止められなかった』という考えが次第に強まっていった事実」をあげる。「田島の耳に最後には言い訳だと聞こえてきたほどでした」という、この歴史学者の感想が、いかにも「人間天皇」の雰囲気を体していて、さもあらんと腑に落ちる。
 これをふむふむと読み取るのは、やはり歴史に関しては門前の小僧である私だが、自己人間史については専門家であるワタシの、自己正当化の無意識が作用しているのであろうか。最後の一皮だけを残して、この歴史学者の解析を好意的に受け止めている。
 だが、その一皮、最後の台詞が気に掛かる。これがこの歴史学者の言なのか、インタビュアー・編集委員の「しこう(嗜好・思考・志向)」なのかわからないが、こう「歴史の教訓」としてまとめている。

《戦前は天皇が国家の主権者でした。その主権者が戦後、『自分にはどうしようもなかった』という考えに至っていた。現在の日本では国民が主権者です。ふたたび戦果に見舞われたあとで『自分にはどうしようもなかった』という総括をまた繰り返すのか。主権者としての選択が問われていると思います》

 ええっ、そうかい? そんなに単純に、法的仕立てに順接的で、統治って行われているのかい? こういう台詞を言わせるために、このインタビューが仕組まれていたとしたら、「大日本帝国の構造的問題に気づいた」という昭和天皇の「気づき」も、何だか怪しくなるなあ。このインタビュー、単なるレトリックなのか、それとも歴史の解明なのか。あるいは、若い人たちの法的仕組みへの常識的なセンスが、私たち世代とは異なってきているのか。
「歴史の教訓」というつまらないセンスが、頂門の一針を逸したって感じがする。戦中生まれ戦後育ちの八十路爺の感懐です。