mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

身の覚え

2024-08-10 09:51:05 | 日記
 朝のTVを見ていたら、薬師岳をやっていた。昔朝ドラに子役で出たことのある女優が、富山県側から登り、太郎平小屋をベースにして薬師岳に登るというもの。何ということのない山の光景を、小屋と麓のダム湖と昼夜の移ろいを、薬師岳を主人公に画面にして見せる45分番組。ついつい終わるまで観てしまった。
 2017年に私は、薬師岳を歩いている。そうか、74歳だったか。立山から入り、五色沼を経て薬師岳に登頂して太郎平小屋から折立に下ってくるという、所謂ダイヤモンドコースの縦走。3泊4日だっ。その前の年に飯豊山を縦走し、ヘトヘトになって下山していたのだが、薬師岳の時は食事付きの山小屋が確保できていたから、荷も軽い。一日の歩行時間を6時間程度と抑えて、ずいぶんのんびりゆったり歩いた印象を残している。
 今朝の番組を見ていて、実体験というのは、どうしてこうも身に残るのであろうかと、おもっている。脳には「場所細胞」があると池谷祐二の著書で知った。その場所細胞がぷかりぷかりと浮かび上がり、TVを観ている私の足先に甦ってくる。思い出すと言うよりも、目に映る光景に身が疼いている感触か。つまり、記憶というのではなく、身に覚えがあって、勝手に反応しているような感じだ。
 記憶というのは、脳にとどめたイメージだ。身の覚えというのは、脳を経由しない反応か。でもそういうことってあるのだろうか。脳科学をしている池谷祐二の説明では、五感の感知することごとも、脳を経て空間認識をし、場所認知をし、色をつけ加えているという。もし脳を除けば、光も色も距離の認識も、三次元さえも二次元に認識することにもなるらしい。つまり、世界は、脳の物語を経て例えば四次元の世界として認知され、その、もの語りを通じて、五感から入ってくる感覚を集約し統合して「せかい」として意識しているという。
 とすると、脳を経ないで身が覚えて、外的な刺激に反応することはないってことではないか。ということは、無意識もまた脳の領分にあって、脳が意識するよりも早く、脳が反応をするってこと。脳を経ないで身が反応しているというのは、脳が「意識」してから動作が起こるのではなく、脳の「意識」より早く「脳の(瞬発的)反応」が繰り出されているのを、「(脳主体の)意識主義」のヒトが、(脳を経ない)身の反応と表現したに過ぎないってことか。それほどに、脳は身と一体となって、無意識に溶け込み、いちいち考えなくても身体が動くことへとセンスを継承してきたってことか。
 そういえば、このところのオリンピックの競技を見ていても、競技選手のレベルが研ぎ澄まされて上がってきたせいか、ぎりぎりのつばぜり合いが行われているようにみえる。いや実は、そう解説されるから、そう見えるのかもしれないと報道しているアナウンサーの手腕に感嘆する面もある。つまり、選手一人ひとりの「意識」など経由していたのでは、とても間に合わないやりとりが行われている。考えてなくても、身が動くことによって責め、防ぐ応酬が、観ているワタシの緊張感を高め、みている側も、何にハラハラしているのかわからないけれども、競技の推移に見惚れ、惹き込まれている。
 何某かの現場に身を置き、臨場して、身体を動かすことが、感官を磨き、受信能力を高めると池谷祐二も話していた。それは、脳の瞬発的反応速度を高め、あたかも脳を経ないで身が反応しているように感じられないと、ヒトは言葉も発せられないし、そもそも世界を感受することができないと言っているようだ。
 五感による感受 → 心による統合 → 脳による(内ー外の)認知ということ自体が、ワタシのつくりあげた物語であって、そもそも心身一如、一体となって受け取り、一体となって外へ向けて発信する。それを分節化して、考えているだけ。具体的な展開は、何もかもまるごとのまま。それが動物の存在ってもの。ヒトは、脳を発達させたことによって、余計なことを考え、余計な回路をつくって、勝手に四苦八苦しているのかもしれない。
 迷ったときは原点に還れって、山でもいう。ヒトもまた、考え迷ったときは、動物としての原点に、それでも迷ったら、さらに植物として過ごした時代の分岐点に戻れって考えると、オモシロイ。ヒトだけが、考えることによって、そうした不可逆的な時間を往還して、類推することができる。どうせ、世界はヒトの脳が創り出した妄想というのなら、妄想によって迷妄の分岐点に戻っても、さしたる支障は起こりそうもない。
 体験が感官をつくり鍛える。今度の水晶岳行は、どんな感覚を味わわせてくれるだろうか。