mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

おいおい早すぎるよ、と思ったが

2024-08-15 08:05:03 | 日記
 昨日(8/14)の朝日新聞夕刊に[改めて読書について]と題する津村記久子のエッセイがあった。「隣の乗客」とコラム名が明記されているから、定期的に掲載されているようだ。読んで、そうそう、そういうことってあるよねと相い響くものを感じていた。
 要点は、本を読んでいるうちにわからなくなることにバラツキがある。小説でも、「不倫に関する文章は一回で理解できるのに、裁判に関する文章は八回くらい読まないとよくわからなかった」と理解度にバラツキがあることを記している。
 ははは、そうだね、こちらの関心は世界に均一ではない。それがどこまで及ぶかという深浅も一様ではない。ことに歳をとると、関心が固着してくる。いや、もうそんなムツカシイことは御免だという気分が押し寄せて、敬遠するってことは、よくある話し。
 津村は、「仕事で読む本は、細かくメモをとったり、ワカルまで読み返したりして何とか理解の体裁を保っている」と。それに続け、「純粋に楽しみで読む本で…メモをとるような工夫はあまりしたくない」「わからないところは何回も読み返していい」と決めた。「自分を叱るのではなく、自分のアホさを受容したいからだ」と、自分の集中力が下がっていくことを認めるようになったと述懐している。
 そうそう、全くその通りだよね。歳をとるってのは、そういう困難に出遭うこと。そういう自分をどこまで受け入れるか、受け入れがたく呻吟するかで、高齢時代を過ごす心身の平安は左右されるよね、と思いつつ読んだ。
 でもこの方、いくつなんだろうと思ってネットで検索して驚いた。何と1978年生まれ。えっ? まだ40代半ばではないか。
 ひょっとして私の読み違いか。そう思い直して、読み直してみた。
(1)作家の「理解する」ってことが、私のそれと違うんじゃないか。何しろこちらは「門前の小僧」である。一知半解も、牽強付会も、ものともしない。いや、端からそう断って居直ってきた、か。生半可な「理解」では、世の中全体を相手にする「作家」は通用しない。
(2)「理解できない」ことは棚上げする。それが、私流。とことん「わかる」には、次々と浮かぶ自問に自答しなければならない。そうなると、そこから先へ一歩も進まなくなる。ところが私流は、棚上げしているうちに、「わからないとわかる」ことが大切と気づいた。起点は、私の無意識。だが津村記久子の起点は、世の中一般の知意識。何だ、こんなことも間違えているとかワカッテいないと指摘されるのは、作家としては致命的ってことかもしれない。そうか、年寄りもそうだが市井の民っていうのは、そういうことから解放されている。いちいち吟味を受け、検証されて、糾弾されることもない。ふむ、なるほど。
(3)そう考えてきて、年齢による変化もあると気づいた。津村は「こんな年になってまでわからなくなるか? という恥の意識があったのかもしれない」と記す。そうだ、若い頃はそういう思いが強くあった。「知らない」とか「わからない」ということに、(まだ未熟だという)躊躇いが伴っていたなあ。それが(2)のように棚上げするようになったのは、自分を「門前の小僧」と見切ることができたから。そうか、あれは、私の40代だったか。津村記久子も、「アホさ」と見切っている。そういう歳になったということかも知れない。
 津村のエッセイは、次のようなオモシロイ結論を引きだしている。

《読書も行動で、運動じゃないかとも思う。最初からは調子が良くないことも、苦手な動作も、途中で疲れてしまうこともあるのだ》

 そうだよ。これが心身一如のワタシの出発点であったと思い出す。身体と魂とか、精神と肉体という対比を、バカだなあ、もともとは混沌じゃないか。それを分節化して、ものを考えるというクセを身に付けたヒトの、謂わば妄想を後生大事にして神棚に飾ろうとしてきたのが知識人ではないか。
 だが、どっこい、こちらは市井の庶民。人生という、分節化されない、まるごとの存在。そもそもが混沌の心身一如という在り様。つまり、どこに自分の拠って立つ原点があるかというと、当然混沌の方にある。知意識人という後発の分節化された観念は、欧米渡りと列島文化のハイブリッド。ことに私のそれは、あちこちから寄せ集めたパッチワーク的フィクションではないか。そこに心底気づいたのが、40代であったか。日本列島に由来する身体論に深入りし始めたのも、この頃を機にしてだったようにおもう。
 よくぞ、四十代を不惑と謂った。ま、昔のヒトは今のワタシたちより早熟だったろうから、不惑が十年、二十年遅くなっても不思議ではない。一つも、この作家の作品を読んだことはないが、そういう大きな変遷の途上にあるとおもうと、よくぞこのエッセイが目に止まったとうれしくなる。