mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

脳科学の刺激(番外)「コメント」の響き

2024-08-03 09:20:53 | 日記
 「脳科学の刺激(1)実体験と世界」(2024-07-30)に関し「コメント」が来てるよと、ブログサイトからお知らせがありました。どなたか斯界の専門家がコメントを下さったようです。ところがその文末には、私のPCでは変換できない文字列が、漢字、カタカナ、記号をとりまぜて2行ほどくっ付いている。おやおや、なんだろう、これは。
《門前の小僧に「コメント」を下さり、ありがとうございます》と書こうとした、このコメントを下さった方に宛てた「返信」を躊躇い、ここに掲載させてもらうことにしました。臆病なんですね、八十爺は。興味津々であるのに、何だろうこれはって手を出すと、火傷をするよって、アタマのどこかで警戒信号がなっているのです。
 それと、もうひとつ。「コメント」を、このブログの読者はどこで目にすることができるのだろうと考えました。このブログサイトを一般経路から開いてみたが、わからない。ならば、ここに「コメントを紹介」するかたちで、アップしても悪くはあるまいとおもっています。
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○ ハイブリッド哲学 (サムライグローバル) 2024-07-31 14:35:03

最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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 たぶん、八十路の門前の小僧が、最先端の「脳科学」に驚いているのを読んで、古い時代との大きな違いをご教示下さったのだとおもいます。そうだよ、あなた方が接していた「科学」や「物理学」「数学」「経済学」も、いまやすっかり方法論も変わっていて、天動説が地動説に代わったほどの転換をしていますよと。そうですね。ここ半世紀、漠然とその変化を感じながら、科学の進展をおもっていたのですが、後半のここ数十年は、はたしてそれが「進展」なのかどうかも、わからなくなっているように感じていました。自問自答が、ますますヒトのクセを相対化してみるようになったのです。
 その用語は用いていませんが、「アルゴリズム革命の衝撃」とか「理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いている」という感触は、池谷祐二の本書を読んでいても感じています。
 あるいは(人工知能の)「ブラックボックス問題」ということを説く池谷の口調には、私が最初に出会って感じたデジタル・プログラミングの「ブラックボックス」があります。1990年代の半ばの頃、NECの協力を得て作成した時間割編成ソフトを使おうとしていたときのこと。専門的知識を持った人たちが取りかかって、何度やっても、あと数個のコマが巧く収まらない。やり直すと、その前の「編成案」はどこかへ行ってしまう。再現はできない。どういうこと? と戸惑ったものです。ソフトがつかうあの手この手は、いわば演算能力の総力を発揮して、私たちヒトが「腕力で解く」ような力仕事をしているだけ、検証もそれを乗せるプロセスも記憶していない。そうとわかって、残りの数個をヒトの手で始末することを提案しやってみたら、ほんのわずかの時間で片付けることができたという笑い話です。
 池谷は、それを思い出させる「ブラックボックス」に触れ、人工知能の揮っている「腕力」にはひょっとするとヒトの知ることのできない何某かの論理があるのかもしれないと記し、それって逆に言うと、ヒトの理解に供するかたちに落ち着くことを「科学」と呼んでいるだけじゃないかと自問しています。その自家撞着への気づきをワタシは、オモシロイとおもっています。
 例えば「コメント」にいう「材料物理数学再武装」とか「非線形関数の造形方法」というのは全く何のことか見当もつきません。でも「たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為」とみる見方(関数接合論)というのは、そうか、そうやって数値に置き換えていくことで、倫理的資本主義とか道徳的資本主義と呼んでいた人の主観的な思い入れを、客観的とか科学的方法にするってことだよと、身の裡に承知させてきた「ヒトのクセ」ってことかと、おもったりもしています。
 この「見当もつかない」専門的な世界の動向というのと、池谷祐二の著書に触れて感じている親近感とは、どう違うのだろう。そういう自問が浮かび上がっています。
 例えば池谷はその著書のなかで「物理学の四大方程式」を書いて見せ、《「よくわからない記号が並んでいるなあ」くらいの気持ちで眺めてね。そもそも僕自身が、この数式をきちんと理解できているわけではない》と述べて、その四大方程式のどれにも「t」(時間)が入っていることを指摘しています。つまり《物理学では、「なぜ時間が存在するか」を問うていない(それを前提として話を進めている)》ことに注意を傾け、その後の展開をしています。「物理学の四大方程式」という(専門家としては必須の)大仕掛けの装置も、市井の民に仮構した高校生たちには「t」に着目させる小道具にしている。そこに私は、門前の小僧への(専門家としての)配慮が滲み出ているとシンパシーを感じているのかもしれません。
 この池谷のセンスは、いま私が読み進めている「2日目」以降で、そもそも「理解する」「わかる」ってことは何なのかと、全く脳科学の専門家として自問することへとつながっています。やああ、すごい。これって、脳科学の専門家かい、それとも哲学者かいって我が胸中に浮かんだ疑問を、バカだねえ、それは一世紀昔の科学や哲学の思い浮かべる疑問だよと嗤う声が聞こえてきます。

《この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる》

 と「コメント」は締めくくられています。そうですね。「科学哲学」という一分野ではなく、科学する人もまた哲学者になっている。そういうほうが、ヒトの学問って感じがします。
 まさしく「揺すぶられたあらゆるものの根本」のほんの端っこの隅の方に、ワタシのような市井の生活者、八十路老爺のわが身への自問自答も連なっているのだと、コメントによって教えられたように感じて、悦んでいます。
 それを (サムライグローバル)にお伝えしたく、これを記しました。
 ありがとうございました。