mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「こころ」は「かんけい」を感知する感性

2014-06-06 08:49:14 | 日記

 いよいよ梅雨に入った。といっても霧のような小雨。何時間かかけてやっと地面にお湿りが降りる程度だから、むしろ、昨日までの暑さが和らいでありがたいくらいだ。湿っぽさも、このくらいなら気にならない。

 

 とはいえ、TVでは、大雨と洪水を報じている。高知県の窪川では575mmの降水という。そちらに住む友人がいるカミサンが電話をする。すると、カミサンの故郷のことを知っている彼の人は、檮原は降らなかったという。つまり太平洋岸の局地的な豪雨、四国山脈の背骨の山間部には及ばないらしい。ヘンなのか、そういうことを私が知らなかっただけなのかわからないから、コメントはできないが、何につけ現象が極端すぎるという印象は、たぶん間違いない。昔なら天の啓示を読み取ったに違いない。

 

 イーディス・バールマン『双眼鏡からの眺め』(古屋美登里訳、早川書房、2013年)を読む。短編集。著者は1936年生まれのアメリカ人。O・ヘンリー賞を何度も受賞しているというから、彼の国では著名人なのであろう。タイトルにひかれて、図書館の書架にあったのを手に取った。

 

 冒頭に置かれた「上り線」は、繁華な都会地で両親とはぐれた子どもの不安と親の慌てぶりを素材にとって、子どもの知的なかたちがかたちづくられていく過程を、街の人々の日常的な振る舞いの中においてみている。はぐれた子どもと親の間に交わされる行動予測的な期待、それがかなわなかったときの仄かな不安、それを上手に掬い取って、みごとに描き出している。O・ヘンリー賞受賞ということは読み終わってから知ったのだが、テーマや表現のさりげなさを考えると、さもあらんと思った。

 

 「双眼鏡からの眺め」も意表をつく顛末が、子どもの目を通した世界の枠をはみ出すところに設えられていて、面白い。

 

 そうして最後におかれた「自恃」。自らを恃(たの)みとするというのは、「自律/自立」という近代の色あいを帯びた言葉よりも、はるかに内面の自律性を表している。「自ら深く苦しむ者には、神すらも笞を振り上げはなさらない…ような…自恃」という里見の言葉遣いが似つかわしい。この短編は、人が迎える終末がどのように彩られた道程をたどるのか、ふと思い返したくなる奥行きを湛えている。

 

 読んでいる間、私の胸中に揺蕩っていたのは「こころ」とはなんだろうということであった。親とはぐれたことの不安、雑踏の中に子どもを見失ったとき親の心理に兆す「しまった」という罪障感、あそこに行けば行き会えるという仄かな確信ともし会えなかったらという心配、これは「こころ」の働きである。ということは、「こころ」は「かんけい」を感知する感覚ではないか。哲学者は「間主観性」ということばを使って、人と人との間に生じる「観念」や「感覚」の共有される様を示すが、それはまさに、「かんけいを感知しているこころ」のことではないか。

 

 「こころ」が心臓にあるというのは、心臓が停止したら命が絶えることからくる身体的な実感だと、何かの本で読んだ。あるいは、「こころ」は脳であるというのは、「こころ」が「意思的な働き」をすることまで含めた概念として提出されているからであろう(古田徹也『それは私がしたことなのか』新曜社、2013年)。

 

 だが、「こころ」を「かんけいを感知する感官」ととらえると、「意思」とも切り離されて、明快になることがある。人とのかんけいに「あったかさ」感じたり「つめたい」と思ったりするのも、「心の感性」が働いているからだ。「こころ」は皮膚の表面に宿っていると、どなたかがどこかで書き記していたが、その感触も、「かんけいを感知する感官」とみると、ぐうんと身体性に近くなって、実感にそぐう。

 

 イーディス・バールマンの短編集は、そうした肌の表面に宿る「かんけい」を取り出して不安や不思議の感覚を描き出し、それが「認識」とか「知的な意識」とに結びつくことによって意外性に至ったり、「かんけい」の安定に落ち着いたりする、知性と心の結びつきを一貫するテーマに据えているように思った。こころ洗われる本であった。


コメントを投稿