mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

散文と詩と信仰と

2016-12-23 10:55:54 | 日記

 年賀の文面を考えていて思ったこと。今年を無事に過ごせて感謝したいという思いを「お世話になりました」という常套句で片づけてしまうのだが、なるほど「お世話になった」ひとに対してはそれでも良いが、「お世話をした」ひともいるし、「無沙汰ばかり」で「お世話のかかわり」に縁のなかった人もいる。子細に見ると、「お世話」をする動機(わけ)とか「お世話」の効用に思いを及ぼすと、「している」方がじつは「されている」という「かんけい」も浮かび上がる。持ちつ持たれつで、分けることができない。

 つまり具体的に個々のケースで考えていると、コトそれ自体を「お世話」という実態/実体としてみようとしている傾きを感じる。そうじゃないんだよなと思いめぐらしていて、ふと、「方々へ感謝を捧げ」ということばが、泥濘からぽかりと浮びあがった。この「方々」とは、人(かたがた)のことばかりではない。「ほうぼう」と読めば空間と過ごしてきた時間も含まれる。「方々へ」であって「方々に」でないことも、「明確な目あて」を示さない。茫洋とした「取り囲むすべて」を指している。人であったり、環境であったり、世界であったり、宇宙であったりする。宇宙から見るとゴミにも値しない、細菌というかウィルスよりも些少なひとかけらが、「感謝」を捧げる。幸運への祈りである。詩とはそういうものかもしれない。

 そうして改めて文面にしてみると、なんとも陳腐な感謝の表明ではないか。むかしおふくろが宗教に凝っていたころ、よく口にしたセリフと同じである。おふくろは昇る朝陽に向かって手を合わせて、何かを祈っていた。(今思えば)その方がはるかに「信仰」に近い。ほとんど習性のように身に備わっていた、祈りとしての「感謝」である。私にはそれがない。ことばが駆け巡っているだけ。だから陳腐なのだ、と気づく。かすかに(宇宙を基点においてみる)「細菌というかウィルスよりも些少なひとかけら」という自己意識が、「宗教性」をもたらす。古希を過ぎた今になって、やっと私が到達した地点でもある。詩的に言えば、「方々へ」とは「神々へ」でもある。そういわないのは、「神々」という表現が手垢にまみれて、私の辞書に記されてあるから。あるいはまた、「神」のある世界ではなく、「ひと」の世界で私は言葉を紡いできたからである。

 そして、また思う。手垢にまみれていて、いいではないか。受け取る人が「あいつもとうとうへたれてきたな」と思うならば、屁垂れてきたのであろう。つまりそれは、受け取る人と私との「かんけい」が屁垂れてきたことを意味している。それはおふくろ(の信仰)を観ている私が、「陳腐だ」と思うのと同じで、それはおふくろが陳腐だということではない。おふくろのそれを見ている私との(私からみた)「かんけい」が「陳腐」だったのである。「信仰」ばかりではなく、ありとあらゆる「ありよう」が(他者に)どう受け止められるかを算入している間は「感謝」の祈りにはならない。ひたすらな祈りは、見返りも求めない。ただ、いま、ここにあることへの感謝。何に対してとは言えないが、私と私にまつわる「かんけい」が、この一年かようにあったことへの「細菌というかウィルスよりも些少なひとかけら」の捧げる感謝。
 
 「方々へ 感謝捧げて 年を越す」

 そういう季節になった。


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