mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

言葉というちゃらんぽらん

2023-09-11 11:22:24 | 日記
 昨日、『舟を編む』(監督・石井裕也、2013年制作)を録画でみた。三浦しをんの原作はその発表された2011年頃に読んで、長年月を要する辞書編纂のご苦労に比して、商業主義全盛の時代には報われ無いなあと嘆く声が聞こえるようであった。
 当時すでに電子辞書が広まり、Wikipediaなどのネット検索が発達していた。生成AIによって「解説」がこなれた言葉で提出されてくると、言葉の検索が「辞書」という権威から解き放たれて自在奔放となる。それは、その分フェイクも混ざって「引く側」からすると、はてどれを信じたらいいか、戸惑う。ということは、人の能力が、どれがほんとうかを見極める手立て(アルゴリズム)を培う方向に向かうしかないのか。
 昨日取り上げた「謙遜」と「謙虚」もそうだが、私たちがつかっている言葉ってのは、人によって大きく意味合いが違う。どうしてそういうことになるか。
 たとえば「時計」。「ときをはかる」道具と考えるのは、すでに「とき」というコトを「人の外部にあって(社会的に)共有している空間の推移軸」と、本質的な直感を駆使して摑んでいる。だから、大きな柱時計、腕時計、目覚まし時計、ネジ巻き式の時計、太陽電池による電波時計と、どんな時計であっても「時計」であると私たちは腑に落としている。これはつまり、「とけい」と耳にしてすぐにイメージする「時計」は人それぞれだけれども、「ときをはかる道具」という本質を共有しているから、えっ、あんたが言ってる「とけい」って、なに? と訊ねたり確かめたりしない。
 これは、人が言葉として共有して遣っているのは、その本質的なイメージにおいてであって、「この時計」「あの時計」「その時計」ではない。そういう指定をするときには、「おじいさんの古時計」とか「ビッグベン」とか「グリニッジの世界標準時計」というふうに特定する固有名詞をつかう。一般的であるってことは、本質的理解を共有していることを意味する。
 だが、「人の外部にあって(社会的に)共有している空間の推移軸」という「とき」の本質という概念もまた、ワタシの理解であって、「外部にある」ってどういうことよと、疑問が呈されるかもしれない。
《「とき」って、過去、現在、未来だろ? なんだよ、外部とか内部とかいいやがって、メンドクサイ。生まれて生きて死ぬってコトだろ》
 と、厳密に言い換えることなんかねえよと深入りしない道筋もある。
 どうしてこうなるのだろう。
 つかう人と時と場合とによって「とき」は意味合いを変える。
 幼い子は「とき」を知らない。空間にも時間にも(当然、他の人も世界も分けることなく)まるごと抱かれて「そのもの」だからである。空間そのもの、時間そのもの、世界そのものなのだ。
 だが、成長するにつれ、「自/他」が分かれてくる。それは「内/外」の分岐である。それだけではない。「自/他」も「内/外」もきっぱりと別れる人もいれば、グラデーションになってどこが分岐点かはっきりしない人もいる。
 でも人として、市民社会で向き合うときには、基本的に同じ人間であるという「人権」を纏って平等・対等の主体個人として出逢うから、概ね皆さんが同じイメージを共有していると「仮定」している。
 ここでは、いくつものメンドクサイハードルを直感的に飛び越している。
(1)「人として、市民社会で向き合う」とは、どこを指しているのか。街のスーパーマーケットか、ご近所の公民館の趣味の集まりか、住んでいる団地の住民総会なのか。
(2)「基本的に同じ人間」とは、何を指して「同じ」といっているのか。「人権」というときの、法的な権利が問題になる次元なのか、生命体としてのヒトを指しているのか。
(3)「平等・対等」というのは、政治的権利・権限のことなのか、ヒトの内面の自由ということなのか。「主体」って何だ。
(4)つまり、上記の差異を通じて「とき」に関する(社会的に)共有する共通イメージはあるのか。
 これらの問いに答えて後に、「とき」が内部なのか外部なのかを問題にしなければ、話がずれてしまう。山の上から転がしたおにぎりが裾野の方へ下るにつれて大きく広がって散っていくように、ズレははじめ小さく見えていても、後には大きすぎて始末に負えなくなってしまう。こういうことって、結構多いのだ。
 しかし、しかしだ。こういうズレがありながら、言葉っていうのは、結構何万年もかけて繰り返し磨かれ、すり減って消えたものもあるが、それなりに共有イメージがあるものとして広くつかわれるモノが生き残ってきている。そう思うから私も懲りず毎日、こうしてブログを書き付けている。それをつかいつつ、えっ、どうしてこの言葉が通じないのかと、いまさらながら驚いているのが、ワタシの日々なのだ。ただひとつ念を押しておきたいことがある。「日々驚きながら」とはいっているが、この「驚き」がワタシの活力源だということは、間違いない。
 楽しい。愉しい。娯しい。
 なぜそれが、たのしいのか。たぶん、一つひとつが、わたしの発見だからだ。これまで意識してこなかった、つまりワタシの無意識が意識世界にぷかりと浮かび上がって、そうか、これがワタシなのかとあらためて味わっているからなのかもしれない。知らなかったなあ、八十年間も、こんなワタシだったなんて。そう、これこそが、真性の「当事者としてのわたしの発見」なのだ。むろんこのワタシは、明日になれば変わっているかもしれない。
 どうして?
 だって、生きてるんだもの。外の世界からの刺激によって、私の内部が照らし出され、ワタシそのものも生きとし生けるものとして変わりに変わる。あるいは、外部が変わるのに、ワタシは頑として変わらない。そういう、世間的には機能的な劣化とか、高齢化ですとか、世の中に通用しなくなってるって、ワタシにとっての「とき」の流れを、本質的に直感しているからですよ。
 ちゃらんぽらんだから通用してきた。それが言葉だ。ちゃらんぽらんは、概ね身の裡に沈み込んで無意識として定着している。そう先もないことだから、それを引っぺがして意識世界に浮き上がらせてみよう。もうこうなると外部にあった「とき」は、すっかりわが身の裡に入り込んで、無意識の一部になっているような気がする。

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