mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

心も体も冷える大連・旅順

2016-10-31 05:25:37 | 日記
 
 夜中に寒くて目を覚ました。空調を入れていなかったせいもあるが、昼夜の寒暖差が大きいようだ。TVの天気予報を見ると、最低気温は8℃ほどになっている。少し着こんで、やっと熟睡した。
 
 翌日、大連と旅順をガイドが案内してくれる。日本が租借していたころに建てた遺跡巡りのようなものだ。ロシアと日本の建築が入り混じっている。さすがに日本人の居住区だった辺りは三階建ての煉瓦造りが多く、庭も植え込みもずいぶんとある。ガイドに言わせると「高級住宅街」だという。だが、改装中であったり、人が住んでいる気配もないところが目につく。ガイドはまた、「超高層の方が流行り」と、先ほどと矛盾したようなことを言う。どちらが本当かわからないが、後者の方が正解のような気がした。なにしろ、「高級」にしては、つくりが古い。フェンスも(もちろん中国人が彼らなりに改修して)設えたものであろうが、電飾が張り巡らされていたりして、季節遅れの安手の歳末の住宅みたいだった。
 
 満州鉄道の本社だったところは、鉄道関係の行政機関が入っているようだ。ただ、古い建物がそのまま「博物館」として保存されているという。「一人50元かかるが、入るか?」と聞くので、入ることにした。入口に上がるコンクリート造りの階段は、古びて剥げ落ちている。ドアに「御用の方は××××に電話をしてください」と、日本語で書いた掲示物がぶら下げてある。ガイドが電話をすると、閉じられた崩れそうなドアが内側から開いて、「どうぞ」と声がかかった。人がいたのだ。訪ねてくる人がいると、そのたびに開ける。逆に言うと、それほど訪ねてくる人が少ないのだろう。中はちょっと驚くほど天井も高く、つくりが豪勢だった気配がうかがえる。もちろんコンクリート造り。本社とは別に周辺に満鉄の調査部とか図書館といった建物もあるから、いわば満鉄街だったのかもしれない。当時の満鉄の勢いを感じさせる。
 
 「博物館」らしく、満鉄の始まりから満州開拓の歩みなどが展示されている。撤退するときに、ほとんど何も持ち帰らないままに残したという。かつての総裁室には、歴代総裁の写真入りの扁額が掛けてある。長い人で5年、もっとも短かったのが最後の総裁の4ヶ月ほどであった。夏目漱石の友人が二代目総裁をしていて、夏目はここに2年ほど遊んだという話も、博物館の学芸員が日本語で話してくれた。ところが、中国語と英語で書かれている説明書きには、あきらかに日本が軍事力を用いて「租借」占領し、中国人を「隷化」して行った事業というふうに書いてあるのに、学芸員は、かつての満鉄の事業が壮大であったことを示すような説明に終始する。質問してわかったのは、ここに来るのはほとんど日本人。あとは、アメリカ人や中国人の小中学生がときどき、ロシア人はほとんど来ませんということであった。
 
 満鉄が残していったものが一室に陳列されていた。時計や切子のガラス製品、条幅や扇子や手拭い、法被などもあったが、それががどれも1万円だという。「えっ、売ってるの?」「はい、売っています。ここを訪れる人が少なくなり、維持する資金が足りません。買い求めていただいて資金としています。ご協力ください」という。それを聞いて、なんとも言えない気分になった。同行のNさんは、父親が満鉄社員であったこともあり、満鉄のマークが入った懐中時計を買ったが、ロシアに勝手に入り込まれ、日本がロシアとの戦争で勝ったからといって、(中国に断りもなく)ロシアから租借権を譲り受けるという、まことに中国にとっては勝手なことをされた「記念館」。そこで、日本の所業のよろしかったところを取り出して説明して資金を求めるというのは、いかばかりの無念をともなうであろうか。学芸員とは言え、この方たちの心裡を思いやると、協力しようという気になるには、もう少し入り組んだ論理回路が必要に思えた。
 
 同じようなことを、この後尋ねた旅順でも感じた。こちらは水師営。旅順攻略の戦勝会見が行われた場所。ここでも、同じように(満鉄などの)遺留品が要られており、説明員は同じような「協力」を要請していた。ひとつ気になったこと。彼ら中国の説明要員はロシアについてはさほど「感懐」を抱いていないようにみえたのに、日本人(軍や満鉄など)に対しては、愛憎混じる思いを持っている(のではないか)。どうしてなのだろうか。水師営では、会見場傍の「資料展示室」では、セピア色の皇室の写真を飾っている。乃木将軍の息子が戦死したことや乃木夫妻の「殉死」の様子まで大々的に掲示している。要するに、戦前の日本人が誇らしく展示していたものを、そのままに「保存」しているのであろう。なぜ? どういう位置づけで? と思うが、説明員からそれを解釈する言葉は聞けなかった。写真は撮るなということであったから撮らなかったが、実はそれのコピーを販売しているからであった。
 足を運んでみて驚いたこと。二○三高地や東鶏冠山北堡塁は、たしかに旅順港をとり囲む格好の地を占めている。その周辺にロシア軍の80基の砲台が(旅順港を護るように)据えられていたというのはよくわかる。その攻略が困難をきわめ、多大の犠牲をともなったということも、得心させるに足る地勢をしている。だが、二○三高地に登ってみて、そこに据えられた(旅順港に照準している)日本軍の28センチ砲をみたとき、よくこれだけの巨大な砲をここまで持ち上げ、据え付けたものだと思った。と同時に、それで砲撃するとしても、旅順港まで7.8㎞もある。届いたのか、という疑問も湧いた。いや(説明板には射程8㎞とあったから)、届いたからこそ、据え付けられて威力を発揮したのであろうが、1905年のこと。私などは「昔のことと」と思っているが、日本の製鉄技術もまた、ずいぶん高度であったと思わせるに充分であった。
 
 旅順を訪ねたとき、旅順港を直下に見晴らせる展望台に行った。この港が良好であると同時に、入口を沈船で塞いだというわけがみただけで納得できる。入口の幅は、わずか90m(70mともガイドは言ったが)だそうだ。しかも内側は広い。さらに、深いのだそうだ。「天然の良港」と軍事的に評価されたのがよくわかる。私の祖父から聞いた日露戦争従軍時の苦労話に得意顔が加わっていたわけもわかるような気がした。
 
 だがこの展望台、風が強かった。二○三高地もそうであったが、体感温度は零度に近かったのではないだろうか。私は、山用の防寒用衣類と雨具を身につけ、ともかく歩き回ることで寒さを防いだが、ほかの面々は、どうだったのだろうか。もう一度大連に帰ったとき、明日に備えて、防寒着を購入した人もいた。
 
 気温が低かったからには違いないが、そればかりではなく、日中ロの歩んできた関係を、現代の私たちがどう(今の自分の身体が抱えているナショナリティを組み込んで)受け止めればいいのか、一筋縄ではいかないなあと、ぼんやり思いながら、帰途に就いたのであった。