mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

庶民としての文化の自律—地の塩の「楽しさ」

2016-10-15 07:05:06 | 日記
 
 昨日(10/13)は、ささらほうさらの月例会。今日の講師は先月とは別のNさん。タイトルをつけていないが、お題は「異議あり! との46年」。「異議あり!」というのは、1970年創刊のミニコミ紙。当初は不定期刊だったが、いつしか月二回刊になり、2006年3月まで続けた。発行している「機関紙」の名前であるだけでなく、グルーピングの名前でもあり、集う人々の遊びと勉強と社会との「たたかい」と、そのように過ごした人生の断片の固有名であった。
 そもそも人生の46年もの長きにわたって、一つのグルーピングに所属し、月2回も集まり、多いときは数千部、有料の購読に切り替えてからでも何百部と発行する。原稿を書き、ガリを切り、印刷、帳合い、発送・配布とつづけていったのは、それだけでも驚異的と言わねばならない。
 何が驚異的か。まず、一人前の仕事をもった大人が、「教育」という領域を主題とするとはいえ、46年間も、かかわり続けることのできる魅力とは何か。組織論や財政論という実務面においても、どのようなやり方をしたからなのか。あるいは、人間関係論的に見ても、どういう立ち位置をそれぞれの人たちが占めることによって、動きをともなう「かんけい」の錯綜が、いわゆる動的平衡を保つことができたのか。そう考えてみるだけで、現代社会の様々なモンダイを解きほぐしてみる「驚異/脅威」があったと言うことができよう。
 《「教育」という領域を主題とするとはいえ……》という点を、ちょっとほぐしておきたい。「教育」というのは、誰にとっても、人生の個々の局面においてつねに当面する「テーマ」である。自らが「学校」に身を置いている学生時代は、むろんそうであろうが、卒業してからも、あるいは会社に入り、自らが上司や先輩を見習ったり、彼らから教わったりする場面で、「学ぶ/教わる」関係が底流に横たわっていることに気づく。家庭においても、夫婦がもつ「かんけい」の構成の仕方、互いの位置づき方、その中に表れてくる、「男と女」の相克と軋轢、ふと立ち止まって考えてみると、その両者の「かんけい」の底流に、私たちが積み重ねて歩んできた文化が堆積している。あるいはまた親となっては、「子どもの教育」が目前の関心事になる。もちろん「勉強」というよりも、社会規範を身につけ、自ら生き抜く活力をどう育んでいくのか。とどのつまり、親は子どもを「教育」することなどできないと思い当たる。子どもは子どもの世界で「かんけい」を学び、生き方を身につけて行く。「遊び」も「友人関係」も、勉強ばかりでなく、人と人との関係における序列関係から自由ではなく、優勝劣敗の社会的評価がかぶさってくることをも、どう受け止めて自らの身の裡に納めるか。それを親として関わり、みているとはどういうことか。つまり、「教育」は、人間の(社会関係を含めた)存在すべてにかぶさる「テーマ」なのだ。だから、「教育」をテーマとするというだけで、大の大人が一生かかずらわり、気持ちを揺さぶられ、迷い、戸惑い、吟味し、思索していくに値する。
 これは言葉を別にすれば、「異議あり!」のグループが、「社会」と「存在」の底辺に降り立つところまで思索の領域を、広げ深めたこと、それが常に、現実存在が「世界」とかかわるときに当面する「課題」と緊張感を崩さなかったことが大きい。しかも、そのときどきの私たちの関心が、あとで振り返ってみると、その時代の知識人たちのくんずほぐれつしていた「主題」をきちんととらえており、しかもそのとらえている地点が、「庶民」というごく普通の社会生活を送る人々にとっての「課題」とタイトに結ばれていたことであった、と思う。
 上記の事実は実のところ、「異議あり!」のグルーピングが「知的に学習活動をしてきた」ことを意味しているのではない。70年代には、「異議あり!」の発行を媒介項としてはいたが、その作業よりも、集い、遊び、ソフトボールをやり、旅をし、議論をし、酒を飲んで、「バッカだなあ、俺たちは」と謳ってきた。「遊び」というのも、麻雀もやり歌やリズム遊びをし、1分間スピーチをし、そうしている空間自体を楽しむ時間をもった。これはつまり、「勉強」という「頭の活動」ではなく、身体と感性とをフルに活動させて「かかわりあう」、いわば総合的な文化の衝突であった。その地平で、私たちそれぞれがいつ知らず親に育まれ生育歴中から持ち来った(地域や階層や時代や社会やの堆積する)文化が、否応なく露呈する。それに目を止めてやりとりをすることによって、かえって軋轢が生ずる場面も、たびたび生起した。それを機に、姿を消していった人たちも何人もいたのではある。にもかかわらず、二けたの数の面々が46年間、関わり続けたのは、「魅力」ということばには含むことのできない自らの存在に関する透き通るようなまなざしが、つねに「異議あり!」の場において再生産されていたからではないか、と私は考えている。
 Nさんは「異議あり! は楽しかった」とまとめている。これには、もう一つ触れておかねばならない「事実」がある。「異議あり!」に原稿を書くことが気楽にできていたわけではない。なによりも苦痛で、「次号の編集方針」に自分の名前が出ていると、何を書こうか、どうかこうかと、はじめはわずか一千字程度であったにもかかわらず、呻吟することが多かったと、Nさんは言う。そのとき、編集長をしていたSさんが「続けることに意義がある。マンネリズムこそが大切だ」と叱咤激励していたことが忘れられない。
 まさにそうなのだ。自分たちは(いつしらず)自分の主張が「新しい」問題を提起し、自分の発言が「目を惹き」、自分の振る舞いが耳目を集めることを志向している。それは「背負い過ぎ」であるとともに、「自意識過剰」であり、何をどう書こうとも、とどのつまり、自分の身体性に備わっている「文化」を、世評にさらす以外の意味はないのだと、見切ることであった。
 そうなのだ。世の中に意味/意義のある発言をしているというよりも、自分の輪郭を描き出しているにすぎないという自覚こそが、じつは「世界」を描き出していることなのだ。ほかの人たちが読んで「ために」なったり、「刮目」したり、「感心」することは、もう一つ別の次元のこと、そう編集長は宣うたと、私は受け止めていた。(たぶん)ほかの面々も、そう思いいたった時点から、原稿を書くことが苦にならなくなった。要するに、自分が何を感じ、それをどう受け止め、その感性の形成過程が何であったかに思いを及ぼし、今の時点で、どう評価しているか。それを表現しているのだと、見切ることによって、「マンネリズム」が我が身の持続性において、花を咲かせ、実りをもたらしたのである。「花」とか「実り」と言っても、ただの文章になって公になったというだけのことではあるが……。
 《「異議あり!」編集作業について》記した中でNさんは、次のように記している。
《異議あり! は集会で販売して知られるようになり、読者は徐々に拡大していった。全国区になってからは、宛名書き、封筒詰め、発送の作業が加わった。宛名書き以下の作業は自宅に持ち帰っていった。徐々にその作業終了まで時間がかかるようになり、ビールを飲んで昼寝をしたりした。宛名書きはswさんが手伝ってくれて、塾でするようになったが発送作業は自宅で行った。》
 この上記に記された「作業」こそが、「マンネリズムの象徴」であった。隔週刊紙を読む側からすると、何が書かれているか、何を主張しているか、どう表現しているかが、関心の対象である。当時も今もマスメディアでは、そのように「エクリチュール領域」の活動は評価を受けていた。だが、その「紙つぶて」が、どのように制作されて手元に届いているかこそが、じつはメディア(媒体)としての実務的な要であり、それなくして「媒体」は意味をなさない。文化としての活動と考えてみると、ミニコミをガリを切りながら刊行するという小さな社会集団の活動こそが、社会的な存在として意味を持っていたのだと、振り返ることができる。言葉を換えれば、縁の下の力持ち、陽の当たらない場所のインフラストラクチャー、つまり地の塩である。
 Nさんは「これら一連の作業は苦痛ではなかった。むしろ楽しかったといって良い」とまとめている。なぜそうだったか。彼はこう続ける。
 《私は簡単な図面(展開図的なもの)を書いてモノを作ることが好きなのである。不器用(今でも木材を鋸で直角に切れない)なのだが、とにかく好きなのである。それはおそらく小学生のころに由来する。/(彼の子ども時代)遊び道具はほとんどが手作りであった。燃料に薪を使っていたのでちょっとした大工道具はどこに家にもあった。子どもは誰もが肥後守をもっていた》
 そうだ。そういう時代であった。だがそれだけでなく、彼自身が、ある種、俗にいう「職人気質」を身に備えていたといえよう。整理整頓好き、物事が雑然としていることに我慢できず、片づけないではいられないという気質が、マンネリズムと言われるようなパターン化された作業を、坦々と続けることを「楽しい」と思わせたのであろう。このおかげで、「異議あり!」は46年間継続することができた。まさに、「地の塩」とでも呼ぶべき活動の存在が土台にあってこそ、アマチュア集団が持続する志を保ち続けることができたのであった。逆に集団性の側からいうと、(販売しているミニコミ紙として)読んでいただけるような中身にそれなりの質を確保しつつも、地の塩の活動に対して敬意を持ち続け、インフラストラクチャーの在り様に気配りを怠らなかった、ともいえる。ちなみに、今日(10/15)の朝日新聞に、雑誌「子供の科学」に《名物連載「よく飛ぶ紙飛行機」》を半世紀設計しつづけた方のインタビュー記事が載っている。見出しに「粘り強くもの作る面白さ知って」と制作者のことばがある。まさにこの言葉の含む「面白さ」こそ、考えてみれば、日本の文化を象徴するベースではないか。Nさんの「楽しかった」という素地があってこそ、46年の集団性が存立しえた。と同時に、この気質は、彼固有のものというのではなく、日本の文化の「身」に沁み込ませて継承してきたものではなかったか。そう考えると、私たちのグルーピングが、単に「教育」領域に一石を投じたというよりも、「庶民」としての文化の自律を謳歌してきたと、みることができる。
 Nさんは、近況に触れて《宮部みゆきを繰り返し読んでいる》という。《なぜ飽きもしないで繰り返し読むのだろう》と自問して、兵庫愼司のことば、《宮部みゆきという作家の特徴として、「その文章を読む行為そのものが幸福」》を援用している。彼女の文章が引き起こす、Nさんの内面の、深いところの共感性、自らの「身」に刻んできた、文化の年輪が宮部という作家の言葉を通して、ふつふつと眼前に浮かび上がってくる驚きと愉悦、それこそが「読む行為そのものが幸福」と感じられるのではないだろうか。
 Nさんの存在を間近に感じていることそのものが幸せ、という時間をもった。