mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

何が悲惨か

2016-10-27 10:37:28 | 日記
 
 今日の新聞に『週刊新潮』の広告が載っている。週刊誌の「見出し」ばかりの「ぶら下がり広告」は、流言飛語の宝庫である。本文を読むことなく、世間の噂と評判の注目点が目に留まる。たぶん、いつしか私自身の中の「世界形成」にもなにがしかの作用をしているに違いない。そんな「見出し」の主軸の座に、今号は以下のような言葉が躍っている。
 
《なぜ「土人」発言だけが報道されるのか?》
《沖縄ヘリパッド 「反対派」の「無法地帯」 現場リポート》
▼天下の公道に「私的な検問所」設置で大渋滞
▼「ぶっ殺すぞ、お前!」ヤクザまがいの暴言一覧
▼沖縄防衛局職員の頭をペンチで殴ったリーダー
▼地元住民に本音を訊くと「あいつらはバカ」
 
 いやはや、本文を読むまでもなく、この記事を掲載した意図が分かる。沖縄に派遣された機動隊員の「土人発言」を帳消しにしようとしている。これをみて「してやったり」という安倍首相や菅官房長官の顔も浮かぶ。いつぞやの国会で「(日本を護るために献身的に働いている)自衛隊員、海上保安官、警察官に感謝する」と起立拍手をした人たちが、ほくそ笑んでいるのが目に見える。私は、それを「今の日本の悲惨」だと思う。
 
 私は沖縄のヘリパッド建設の「現場」を知らない。それに関する記事も、気を付けて読んでいるわけでもない。だから、この『週刊新潮』の記事の真偽について確かめようもないのだが、真偽よりも、「だから何なのか」と、この記事掲載者に聞きたい。「どうせ週刊誌、売れてなんぼよ」と応答があるかもしれない。もしそう居直るのなら、今後は『売れてなんぼの週刊新潮』と名前を変えてからにしてもらいたいね。
 
 「大渋滞」「ヤクザまがい」「暴力的」「バカ」、これらのレッテルを貼るためだけの見出しである。「天下の公道」で公権力が検問したり、封鎖したりするのは当然。それに対抗しようとする人たちが「私的な検問所」を設置するとしても、それを非難する根拠はどこにあるのか。「ヤクザまがい」とか「暴力的」というのは、国家権力そのものの占有事項。「国民」が、国家権力から身を守ろうとして、何を手段にできるだろうか。「無法」を非難しているというかもしれない。だが、トーマス・ホッブズを引き合いに出すまでもなく、「国家は最強の怪物である」。「主権」をすべて(国家に)「預けてしまった」としても、ジョン・ロックのいう「抵抗権」を保留している。学校でそう教わったからではなく、私たちは、大東亜戦争や太平洋戦争の反省として肝に銘じたことであった。
 
 だからいま、沖縄の人々の「抵抗」について、「国家権力」と「民衆/国民」とを同列に並べて、《なぜ「土人」発言だけが報道されるのか?》などというお粗末なことは言うべきではない。もし「土人発言」だけが責められているとしたら、それは間違いだ、責められるべきは政府首脳だ、政治家たちだ、というべきなのである。
 
 この週刊誌の記事の真偽はどうであれ、(仮に事実だとしても)私は沖縄の人たちを擁護する立場をとる。あきらかに「問題なのは」政府の方にある。暴力的に、ヤクザ同然に、合法性を盾にとって強行しているヘリパッドの移設自体が、「怪物」の所業だからである。そしてそれを傍観している私もまた、植民地宗主国の住民らしく(ふだんは)思慮の外に置いているからにほかならない。
 
 ただ今の私の(政治的に無力な)立場から言えるのは、機動隊員がそのような暴言を吐かざるを得ない立場に追い込み、地元住民がそのような振る舞いをしなくては「願い」が届かないような状況に追いやったことと、それを同列に俎上に上げ、国家権力当事者の責任を阻却するような記事を平然と掲載させてしたり顔の政治家たちこそが、私たちの悲惨だと思うのである。