mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

多次元世界に生きる私たちの姿

2016-10-28 09:59:28 | 日記
 
 世界が十一次元あるという宇宙論の世界を耳にすることが多くなった。もちろん私が、そのようなことに関心を持っているからなのだが、かつてはSFの世界でしか考えられていなかったパラレル・ワールドという世界も、科学世界の論理的仮想として語られるようになった、と言っていいのかもしれない。そのイメージを物語りにしたのが、宮部みゆき『過ぎ去りし王国の城』(角川書店、2015年)。図書館に予約しておいたら、1年半後に届いた。するすると読む。
 
 人と人との関係における宮部みゆきの世界が上手に取り出される。好ましく思って読むから余計に奥行きをつけているのかもしれない(と、読み手の自分を振り返ったりもする)。奇しくも今日(10/28)の朝日新聞「折々のことば」で鷲田清一は次のようなことばを拾っている。
 
《誰かの支えになろうとしているこの人が、一番支えを必要としていると思いました。……ある女子高校生》
 
 宮部みゆきという作家の、ひ弱な人に対する視線が好ましく、しかし今回は、その(甘い)視線を自らに拒絶することによって自律を果たしていこうとするラストが、上記の女子高校生のことばと重なって、新鮮な切り口。というか、宮部にとっては自家薬籠中の語り口。そう言えるかもしれない、と考えた。
 
 作家とても、毎回同じモチーフで物語りをしていては、いやになるに違いない。宮部みゆきという作家は、そういう点で(時代劇は知らないが)、マンネリになることを拒んで一作ごとに異なった地平を見ようと努めているように思える。それがまた、好ましく感じられる。私自身は、マンネリの世界に身を置いて、暮らしとしてはそれを拒んでもいないのに、作家や評論家には、より新鮮な世界を切り開いてくれることを望んでいる。読者の特権である。作品消費者の贅沢な欲望である。それが、(己の)現実存在に対するハッとするような鋭い批判であってもいい。そうそう、(私も)そう思うと同調的に読みすすむ作品よりは、ほほう、そうくるかと、意想を衝く世界の方が面白い。ということは私も、いまだ、違った次元の世界を覗いてみたいと願っているのだろうか。それとも、仮想世界と現実世界とのメリハリがきっちりついてしまって、心を遊ばせる世界を知っているということだろうか。う~ん、「遊ばせる」だけか。それはまた、つまらないねえ。
 
 だがさらに後に気付いたのだが、宮部みゆきは宇宙論的な世界を(ひも理論的に)取り出して試みたというのではなく、近頃流行りのVR(ヴァーチャル・リアリティ)とリアリティ世界との「かかわり」を描き出そうとしたのではないか。そう思って読むと、四次元の現実世界から二次元の絵を入口にVRの世界に入り込む入り方、その感じ方、その中での自己の位置づけ方、そこから何も持ち出せないという仕組み、外へ出てきたときにエネルギーを吸い取られたようにへとへとになってしまうこと、ひょっとしてVRの世界は「死の世界」と同じではないかと思えることなど、まさにヴァーチャルであることが仮想されていると読める。ということは、十一次元の世界というのも、まさに私たちの想像力世界の中に位置づくだけの「仮想現実」。IT時代の若い人たちが、たとえば「ポケモン」というVRに夢中になっているのを嗤っていた私たちも、じつは、同じような想像世界に遊んでいただけと言える。つまらないねえ、と言って済ませられることかどうか、またわからなくなった。
 
 というのはVRがすでに、「ポケモン」もそうだが、現実と入り組みはじめているからだ。そこに足を運ばなければ出会えない、目前の風景の中に「ある」ものを、「ある」と感じている人間がいるのだ。論理上想定できることと、眼前に見ていることとが、同次元で「ある」と感じられるかというと、むしろ後者の方がリアリティがある。前者の「論理上想定できる」という、目に見えないことが「見える」というのは、インテリジェンスを媒介にしなければならない。だが、百聞は一見に如かず。「感触」としてのリアリティに、思索(インテリジェンス)としての論理性は適わない。そういう、大きな人間文明の変化を汲みとるところに宮部みゆきが踏み込みはじめているのか。それはすごいなあと、いまは単なる私の思念の中で、感心しているのである。