mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

オレたちゃ~街には~住めないからに~

2016-10-25 19:58:33 | 日記
 21日から4日間、中国へ行ってきた。ご近所の友人たちと4人。そのうち一人は、父親が満鉄に勤めていたこともあって中国生まれ。もう一人は朝鮮の元山近くに生まれた経歴の持ち主で、奉天や大連に行きたいと言い始めた方。もちろん私より年上である。後の一人は古稀になったばかりだが、数年前に奥様を亡くされて世界のあちこちに遊びに行っている方。
 
 私はというと、中学生のころに祖父から日露戦争に海軍で参加したとの話を聞かされた覚えがある。海からの旅順攻略で苦労したと、あたかも二〇三高地に攻めあがっていたかのように誇らしげであったのが記憶にある。「行かないか」と誘われてから、鮎川哲也の『ペトロフ事件』と清岡卓行の『アカシアの大連』を読んだことは、それぞれ9/25と927のこのブログに記した。両作家はいずれも大連生まれ、日本が租借していた時代の大連・旅順を舞台にしているが、書いたのはやはりどちらも1950年代。彼らの描いている風景が70年以上前ということもあって、もちろん変わっていることは当然と思っていたし、いまさら、昔のノスタルジアに浸ろうと考えていたわけではない。ひと口に「中国」とは言え、漢民族ならぬ北狄が住まわっていた土地である。あるいは金や韃靼族が根城とし、後にロシアが租借し、さらに後に日本が占領して満州国を建国した地である。どうなったかを一見してみたい。それだけの理由で、行を共にすることにした。
 
 じつは大連空港に降り立ったときに、すべてを感じとってしまったと、思った。林立する超高層建築群、雲か霞かという風情よりもPM2.5かと疑いたくなるほど街全体を覆う「煙霧」。街の中心部の宿に向かうにつれ片側6車線に溢れんばかりに行き交う車列、割り込む車にプワンプワンと絶え間なくならされる自動車の警笛。街を歩く人の数、交通信号が極めて少なく、車の中に割り込むようにして通りを渡る人びと。これですっかり私の気は滅入ってしまい、大連に来たことを後悔すしているように思った。これは後で考えてみると、私がすでに人が密集する街には住めない身になっているんだと思い知らされることであった。
 
 大連のガイドは、現地に在住する中国人。大連の外国語学校で日本語を学んだ60歳の方。娘と婿が日本に在住していて、婿は京劇の俳優を務める中国人、娘はどこかの大学の中国人留学生の世話をしている職員とのこと。日本びいきで、年に何回かは日本を訪れているという。日本航空の公認の大連現地ガイドということだが、近年は日本人の観光客が少なくなり、無聊を囲っているそうだ。そういうこともあってか、4日間、ずいぶん私たちの希望を聞いて、世話をしてくれた。
 
 詳しくは後日また、書くこともあろうが、今日はただただ、ぼんやりと時間を過ごしたい。中国旅行で疲れたというよりも、中国へ行く以前の越後の山の疲れが旅行中に出てきて、あまり食欲がわかず、ぼ~っと休みたいという気分。
 
 ちなみに、歩いた歩数は、21日13500、22日13000、23日18000、24日12000というから、たいしたことはない。私もずいぶん年を取った。