北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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四天王像

2015-10-19 21:32:20 | 函館



基坂の上、旧函館区公会堂に近い「元町公園」の一角に、このような像が設置されています。





一人ずつ紹介していきましょう。
まず最初の人物は、今井市右衛門。
現在の石川県、能登地方の出身で、若くして函館に渡って西洋雑貨の店舗を開き、北海道最初の新聞社「北溟社」を創立した人物であり、福祉事業の一環として、困窮する家庭の子供達を対象にした無月謝の私立学校、「鶴岡学校」を創立するため多くの資財を投じた人物です。





向かって左側は、平田文右衛門。
函館生まれの呉服太物商で、函館の繁栄のために、造船所、器械製作所、学校、病院、新聞社の設立を主唱し、今日に至る函館繁栄の礎を築いた人物と言っても過言ではありません。

向かって右側は、渡邉熊四郎。
大分県は竹田の出身で、1869年(明治2年)に、函館中心部のデパート「棒二森屋」の前身となる「金森洋物店」を開き、世界各地の商品を普及させることで、貿易を通じた函館の発展に貢献しています。
また、1887年(明治20年)には倉庫業を始め、幕末期に、外国人居留地や造船所のあった土地を購入し、跡地に大きな倉庫を建設。それが、今に至る、金森赤レンガ倉庫へと繋がっています。





最後は、平塚時蔵。
青森県田名部の豪商の息子として生まれ、函館に商家の手代として入った後、1875年(明治8年)、先に紹介した三名と共に、道内で最初の石造、洋風の「魁文舎」という建物を建て、店内に新聞閲覧所を設けた。
その後、1877年(明治10年)には、同志達と協力して、先に触れた「鶴岡学校」の創設に尽力した他、「函館公園」や、道内初の公立病院の創設にも尽力するなど、多大な功績を残しています。

さて、この四名、何ゆえ、このように一体となって像が設置されているかと言いますと・・・、





そうなんです。この四名は、その大きな功績を称えられ、「函館四天王」と呼ばれているのです。
時の開拓使函館支庁長であった、時任為基によって「四天王」と称され、開拓使長官であった、あの黒田清隆より、黄金の指環を拝受されました。
歴史の教科書には出てこないけれど、函館の歴史を掘り下げる上では欠かせない人物ということで、勉強の一環として紹介してみました。
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