札幌で気になった神社をもう一つご紹介。
今度は、東区ではなく西区(私の実家の近く)です。
大きな鳥居がありますね。
縦横無尽に張り巡らされている道路網の中でも、幹線道路の部類に入る大きな道路に面しています。
「発寒(はっさむ)神社」という神社です。
鳥居をくぐって先へ・・・。
あれっ、何か変な気が・・・。
そうなんです。
本殿の正面が鳥居に面していないのです。
そればかりか、普通神社というと、鳥居から本殿までの間に参道があるものだけど、それらしき道もありません。
同じような神社として、小樽の水天宮を紹介したことがあるけれど、こちらは、小樽の市街地の発展の過程で、町の中心部が移動したことに伴うものであるということが「ブラタモリ」小樽編で紹介されていました。
ここも何かきっかけがあるのかな・・・。
おや、もう一つ小さな鳥居がありますね。
それに参道もあり、その奥に本殿が見えますよ。
そう、こちらがこの神社の正面だったのです。
この正面は、先ほどの幹線道路から少し脇に入った場所にあります。
地図をリンクさせておきます。参道が描かれているので、位置関係がわかると思います。
幹線道路に面して、大きな鳥居と神社名を刻した石碑が建っているから、てっきりそっちが正面だと思ってしまいました。
1856年、蝦夷地開発の幕命を帯びて、山岡精次郎主計守以下17名この地に移住し、稲荷社を創建したのがこの神社の起源とされており、1898年12月、宗祖と崇められる伊勢大神宮より豊受大神の分霊を拝賜し、1903年1月に「発寒神社」と改称し、北海道庁長官より認可されています。
御祭神としては、豊受大神(とようけのおおかみ)、倉稲御魂大神(うがのみたまのおおかみ)が祀られています。
境内には、記念碑が二つ建立されています。
まずこちらは、1857年に、旗本二十人が入植したことを記念したもの。
そしてこちらは、1876年に屯田兵三十二戸が入植したことを記念したものです。
境内にはこのような史跡もあります。
10世紀前後のものと推定されているそうですが、ごらんの状況なので、融雪後にぜひまた見に行きたいと思います。
今度は、東区ではなく西区(私の実家の近く)です。
大きな鳥居がありますね。
縦横無尽に張り巡らされている道路網の中でも、幹線道路の部類に入る大きな道路に面しています。
「発寒(はっさむ)神社」という神社です。
鳥居をくぐって先へ・・・。
あれっ、何か変な気が・・・。
そうなんです。
本殿の正面が鳥居に面していないのです。
そればかりか、普通神社というと、鳥居から本殿までの間に参道があるものだけど、それらしき道もありません。
同じような神社として、小樽の水天宮を紹介したことがあるけれど、こちらは、小樽の市街地の発展の過程で、町の中心部が移動したことに伴うものであるということが「ブラタモリ」小樽編で紹介されていました。
ここも何かきっかけがあるのかな・・・。
おや、もう一つ小さな鳥居がありますね。
それに参道もあり、その奥に本殿が見えますよ。
そう、こちらがこの神社の正面だったのです。
この正面は、先ほどの幹線道路から少し脇に入った場所にあります。
地図をリンクさせておきます。参道が描かれているので、位置関係がわかると思います。
幹線道路に面して、大きな鳥居と神社名を刻した石碑が建っているから、てっきりそっちが正面だと思ってしまいました。
1856年、蝦夷地開発の幕命を帯びて、山岡精次郎主計守以下17名この地に移住し、稲荷社を創建したのがこの神社の起源とされており、1898年12月、宗祖と崇められる伊勢大神宮より豊受大神の分霊を拝賜し、1903年1月に「発寒神社」と改称し、北海道庁長官より認可されています。
御祭神としては、豊受大神(とようけのおおかみ)、倉稲御魂大神(うがのみたまのおおかみ)が祀られています。
境内には、記念碑が二つ建立されています。
まずこちらは、1857年に、旗本二十人が入植したことを記念したもの。
そしてこちらは、1876年に屯田兵三十二戸が入植したことを記念したものです。
境内にはこのような史跡もあります。
10世紀前後のものと推定されているそうですが、ごらんの状況なので、融雪後にぜひまた見に行きたいと思います。