
札幌市東区、地下鉄東豊線「環状通東」駅の近くにある「札幌村郷土記念館」。
場所はこちらですが、この一帯は、江戸時代から明治時代にかけて和人による開墾により農村として拓けた「札幌村」が存していた場所。
幕末期、「御手作場」という幕府直営の農場が設けられ、慶応2年(1866年)4月、箱館奉行から「蝦夷地開拓掛」の役職を与えられ、現在の木古内町から赴任してきた「大友亀太郎」が、役宅を建て村を開いたのが最初とされています。
この記念館には、そうした大友亀太郎の関係資料をはじめとする開拓関連資料や、当時の農具や生活用具などが展示されています。

敷地内にある、大友亀太郎の像と役宅跡の碑。
この役宅は慶応3年(1867年)に建てられ、近くには板倉、穀物倉、鍛冶小屋などが置かれていたとのことで、明治2年(1869年)に開拓使判官島義勇の官舎として現在の中央区北1条西1丁目付近に移築されたそうです。
その移築場所がわかる資料、きっと図書館にあると思うので、調べてみます。

これは、明治4年(1871年)に、札幌村で全国に先駆けて玉ネギ栽培が開始されたことの記念碑。
私も大好きでよく買って調理している玉ネギの栽培が、地元である札幌市で始まったということは、何だか嬉しく、誇りにさえ思います。
現在でも、札幌市東区は、全国でも有数の玉ネギ生産地区として知られています。

続いて、記念館の近くにある小さな公園へ。

「大友公園」というこの公園は、大友亀太郎が、御手作場の開墾を進めるために開削した用水路の終点にあたる場所。

写真の遊歩道はその堀跡を舗装したもの。
「大友堀」と呼ばれたその堀は、豊平川の支流胆振川を水源として、現在の創成川の一部である札幌市中央区南3条から北6条を経て、御手作場の中を流れて、この公園の所で、伏篭川(ふしこがわ)という川に注いでいたとされています。
現在の創成川から分岐し大友公園に至る流路跡は、埋め立てられて道路となっていますが、何げなく歩いていたことが何度かあったので、今度は、そこに特化して歩いてみようと思います。
(この地図を見れば何となくわかる・・・かな?)

と、本来なら、堀跡の紹介でこの記事を終えようと思ったのだけど、公園の中を見回してみると、ショッキングな光景が広がっていました。



先日の「胆振東部地震」では、札幌市東区でも震度6弱が観測され、幹線道路が大きく陥没するなどの影響が出ていたのですが、これはちょっと生々しいなあ・・・。
付近の住宅や住民の方々に被害がなかったのが幸いだったかと思いますが、憩いの場である公園でこのようなことが起きたというのは、衝撃が大きいです。