きょうの「自在コラム」は書評です。新潮新書の「徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明著)を一気に読みました。歴代の将軍たちがどのような病気で死去したのかという縦軸が一本通っていて、横軸に時代背景やエピソードが散りばめられているのでコンセプトがしっかりしていて、分りやすいから面白いのです。作者の篠田氏は愛知県生まれ、整形外科医で作家です。この本が説得力を持っているのは、歴代の将軍が眠っている東京・芝の増上寺の改修工事(昭和33年)の際、徳川家の墓所が発掘され、埋葬された遺体ついて学術調査が行われ、その資料に基づいていること。また、「徳川実記」など史実を裏付ける古文書に篠田氏が鋭い読み込みを入れているからでしょう。
徳川家の菩提寺・増上寺
歴代将軍の平均寿命は51歳の不思議
歴代の将軍の平均寿命は51歳。最長寿は十五代の慶喜で77歳、次が初代の家康の75歳です。これは意外でした。織田信長は「人生50年」と謡い能を舞いました。それから時代が下り、御典医ら江戸城の医師団の手厚いメディカル・チェックを受けていたにもかかわらず、信長時代と寿命が変わらないのです。平均寿命が短いのはほどんどが将軍直系の子どもたちで、「大奥で過保護に育てられた虚弱体質といえようか」と篠田氏は述べています。
その「過保護」の具体的な例が、将軍たちの乳母。乳母たちは白粉(おしろい)を顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚く塗りました。抱かれた乳幼児は乳房を通じて白粉をなめたと同時に、乳幼児にも白粉が塗られました。これがクセ者で、江戸時代の白粉は鉛を含んでいたのです。体内に蓄積された鉛で中毒を起こし、筋肉のマヒや知能障害などに陥るケースもあったのではないか、と篠田氏は考察しています。
正室にのしかかったストレス
歴代の将軍よりさらに短命だったのが公家・宮家から迎えられた正室で、その平均寿命は47歳でした。宮廷社会から武家社会に入り、言葉もまったく違う。こうした強いストレスが加わった場合、卵巣に排卵異常が生じたり、卵管けいれんが起こったりと順調な受胎ができない場合が多いそうです。子どもができない場合、それがまた次のストレスを生むといった悪循環にも。ですから、将軍の世継ぎを生んだのは正室ではなく、侍や農民、商人の娘である側室でした。これがまた大奥での確執=ストレスへと発展していくのです。年齢についての考察以外にも、「生類憐れみの令」で有名な五代・綱吉は内分泌異常で身長が124㌢だったことなど、これまでの歴史教科書や小説では見えてこなかった将軍たちの実像が医学の観点から浮かび上がってきます。一読の価値があります。
⇒22日(日)午前・金沢の天気 くもり
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歴代将軍の平均寿命は51歳の不思議
歴代の将軍の平均寿命は51歳。最長寿は十五代の慶喜で77歳、次が初代の家康の75歳です。これは意外でした。織田信長は「人生50年」と謡い能を舞いました。それから時代が下り、御典医ら江戸城の医師団の手厚いメディカル・チェックを受けていたにもかかわらず、信長時代と寿命が変わらないのです。平均寿命が短いのはほどんどが将軍直系の子どもたちで、「大奥で過保護に育てられた虚弱体質といえようか」と篠田氏は述べています。
その「過保護」の具体的な例が、将軍たちの乳母。乳母たちは白粉(おしろい)を顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚く塗りました。抱かれた乳幼児は乳房を通じて白粉をなめたと同時に、乳幼児にも白粉が塗られました。これがクセ者で、江戸時代の白粉は鉛を含んでいたのです。体内に蓄積された鉛で中毒を起こし、筋肉のマヒや知能障害などに陥るケースもあったのではないか、と篠田氏は考察しています。
正室にのしかかったストレス
歴代の将軍よりさらに短命だったのが公家・宮家から迎えられた正室で、その平均寿命は47歳でした。宮廷社会から武家社会に入り、言葉もまったく違う。こうした強いストレスが加わった場合、卵巣に排卵異常が生じたり、卵管けいれんが起こったりと順調な受胎ができない場合が多いそうです。子どもができない場合、それがまた次のストレスを生むといった悪循環にも。ですから、将軍の世継ぎを生んだのは正室ではなく、侍や農民、商人の娘である側室でした。これがまた大奥での確執=ストレスへと発展していくのです。年齢についての考察以外にも、「生類憐れみの令」で有名な五代・綱吉は内分泌異常で身長が124㌢だったことなど、これまでの歴史教科書や小説では見えてこなかった将軍たちの実像が医学の観点から浮かび上がってきます。一読の価値があります。
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