86歳、杜氏として今でも造り酒屋で蔵人たちを指導する農口尚彦(のぐち・なおひこ)氏は国が卓越した技能者と選定している「現代の名工」であり、ファンからは「酒造りの神様」と称され、地元石川では「能登杜氏の四天王」と尊敬される。金沢大学の共通教育科目「いしかわ新情報書府学」(2009-2016年)を担当していたころ、非常勤講師として農口氏に酒造りについて講義をいただいたことが縁でこれまで能登の自宅や酒蔵を何度か訪ねた。
酒蔵見学には他の造り酒屋にも何度か訪れたが、農口氏の酒蔵は独特の凛とした雰囲気がある。農口氏は米のうまみを極限まで引き出す技を持っている。それは、米を洗う時間を秒単位で細かく調整することから始まる。米に含まれる水分の違いが、酒造りを左右する。米の品種や産地、状態を調べ、さらには、洗米を行うその日の気温、水温などを総合的に判断し、洗う時間を決める。勘や経験で判断しない。これまで、綿密に蓄えたデータをもとにした作業だ。そのデータを熱心に記録する姿は「酒蔵の科学者」との印象だ。
酒蔵に住み込む農口氏は夜中でも米と向き合い、米を噛み締める。持てる五感を集中させて、手触り、香り、味など米の変化を感じ取る。次に行うべき適切な作業とは何かを判断するためだ。農口氏は言う。「自分の都合を米や麹(こうじ)に押し付けてはならない。己を無にして、米と麹が醸しやすいベストな状態をつくらなければ、決して良い酒は出来ない」。酒造りに生涯を捧げる言葉には悟りを求めるような深みがある。
その農口氏がかつて杜氏をしていた酒造会社に無断で名前を商品名や広告宣伝に使われているとして使用の差し止めを求める仮処分を申し立て、金沢地方裁判所はこのほど農口氏の名前を使うことを禁じる決定を下した。きょう14日付の新聞各紙が報じている。その酒造会社「農口酒造」(能美市)は出資者と2013年に共同で設立したものの、経営者との酒造りの方針が食い違い2015年に辞している。その後、農口氏は2017年に「農口尚彦研究所」(小松市)という名称の酒造会社を別の出資者と立ち上げた。金沢地裁は前の会社を辞めて4年が経ち、農口氏が実際に造った酒は在庫がないはず、として名前の使用を禁止した(5月30日付)。
日本酒業界における農口氏の知名度は抜群である。商品名だけでなく、造り酒屋の社名そのものに「農口」の名前が被さっているほどだ。ある意味「有名税」とは言え、売らんがために名前をいつまでも勝手に使われたのではたまったものでない。地裁の判断に胸を撫で下ろされたことだろう。実は農口氏は下戸である。もし飲めれば、この一件は快心の一献だったろう。(※写真は、日本酒について学生たちと語らう農口尚彦氏=右=、2010年11月、金沢大学角間キャンパス)
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