自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆日米野球文化のアーチに-下

2013年07月31日 | ⇒トピック往来
 指揮者・岩城宏之はプロ野球のファンでもあった。2004年と05年の大晦日、ベートーベンの一番から九番の交響曲を一人で振り切ったとき、ステージトークで「ベートーベンのシンフォニーは9打数9安打、うち五番、七番、九番は場外ホームランだね」と野球にたとえて述べていたくらいだ。松井もまた、2004年の大晦日に、岩城のベートーベンの9番連続指揮をCS放送でたまたま帰国した実家で視聴して、「(岩城さんは)すごいことに挑戦しているいる」と思ったという(テレビ朝日『テレメンタリー』2006年11月27日放送「松井秀喜への手紙~指揮者岩城宏之 Far Eastの挑戦者」)。

       松井だからなれる「日米野球文化の懸け橋」に

 岩城は2006年6月13日に亡くなる前、当時の松井に手紙を出していた。松井はその時、故障で休場を余儀なくされていた。

 「今回あなたの闘志あふれる守備のため、負傷したことは、誠に残念です。しかしながら、これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、(中略)一番都合の良い夢を見てすごしてください。(中略)私も30回に及ぶ手術を受けましたが、次のコンサートのポスターをはって、あのステージにたつんだと、気持ちを奮い立たせました。(中略)お互い、仕事の世界は違いますが、世界を相手に、そして観客の前でプレーすることには変わりはありません。私も頑張ってステージに戻ります。」(岩城から松井への手紙)

 岩城と松井の直接の接点はない。ただ、岩城は松井の故郷である石川県に拠点を置くオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督をしていた。そして常々、「このオーケストラを世界のプレイヤーにしたい」と語っていた。岩城さらも、20代後半にクラシックの本場ヨーロッパに渡り、武者修行をした経験がある。その後、NHK交響楽団(N響)などを率いてヨーロッパを回り、武満作品を精力的に演奏し、日本の現代曲がヨーロッパで評価される素地をつくった。

 岩城は挑戦者の気概を忘れなかった。2004年春、自らが指揮するOEKがベルリンやウイーンといった総本山のステージを飾ったときの気持ちを、「松井選手が初めてヤンキー・スタジアムにたったときのような喜び」と番組のインタビューに答えていた。クラシックのマエストロは、野球の本場ニューヨークで奮闘する松井の姿と同じ心境だったのだろう。

  もし、岩城が生きていたら、今の松井にこんな手紙を送ったかもしれない。「これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、一番都合の良い夢を見てすごしてください。あたなたは日本とアメリカの野球のことをすでに熟知された。これからはニューヨークに在住しながら、できればアメリカの大学に入って野球の歴史と文化を学び、そして日米野球文化のアーチ(懸け橋)になっていただきたい。あなただからそれができます。」

⇒31日(水)朝・金沢の天気   はれ
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