自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆震災とマスメディア

2013年03月11日 | ⇒メディア時評
  きょう11日は東日本大震災から丸2年となる。震災が発生した2011年3月11日14時46分ごろ、私は金沢大学サテライトプラザで「事業企画・広報力向上セミナー」という社会人向けの講座を開いていた。イベント企画などをマスメディアに向けて発信するニュースリリース文の書き方の実習を行っていた。当時、金沢の揺れは震度3だったが、揺れを感じた人は少なかった。講義室は2階だった。別の教員がたまたま1階の事務室でテレビ速報を見ていて、「東北と関東が地震で大変なことになっている」と血相を変えて2階に上がってきた。それが震災を知った最初だった。

  自宅に帰り、テレビにくぎ付けになった。NHKが空撮の映像を流していた。東北のテレビ局の友人に聞くと、当時、マスメディアの中で、ヘリコプターを飛ばすことができたのはNHKだけだった。たまたま別の取材でスタンバイしていて、瞬時に飛ばすことがた。ほかの民放テレビ局のヘリは、駐機していた仙台空港が津波に襲われ破損したのだった。この話を聞いて、メディアも被災者だったのだと実感した。その後、東北の被災地に何度か出かけた。震災から2ヵ月後の5月11日から13日に仙台市と気仙沼市を取材に、昨年2月2日と3日に仙台市をシンポジウム参加で、ことしに入って、2月25日に福島市をシンポジウム参加で訪れた。

  地震の被災地を訪れたのは2007年3月25日の能登半島地震、同年7月16日の新潟県中越沖地震以来だった。新潟は震度6強の激しい揺れに見舞われた。震源に近く、被害が大きかった柏崎市は原子力発電所の立地場所でもあり、地震と原発がメディアの取材のポイントとなっていた。そんな中で、「情報こそライフライン」と被災者向けの情報に徹底し、24時間の生放送を41日間続けたコミュニティー放送(FM)を取材した。それ以降、毎年、マスメディアの授業では、メディアが被災者と被災地に果たす役割とは何かをテーマに「震災とメディア」の講義を2コマないし3コマを組み入れている。震災から2ヵ月後に訪れた仙台市と気仙沼市は講義の取材のためだった。

  東日本大震災は、震災、津波、火災だけにとどまらず、原発事故も重なり痛ましい災害となった。担当しているマスメディアの授業では、学生たちの被災地の様子を伝えたいと考え、自ら被災者でもある現地の東日本放送(仙台市)の番組プロデューサー(局長)や報道部長に金沢大学に来てもらい、「震災とメディア」をテーマにこれまで講義を2回(2011年12月13日、2012年5月8日)をいただいた。ことしも5月に同放送局の報道の編集長を招いて、その後の被災者とメディアのかかわりについて話してもらう。これまでの講義で「寄り添うメディアでありたい」との言葉が印象的だ。3年目を迎え、それを具体化するためにどのような番組づくりを行っているのか、学生たちに直接話を聞かせてやってほしい。授業を通じて、震災を考える、メディアの在り様を考える、地味ではあるが続けていきたい。2007年から始めた「震災とメディア」の講義はこれまで6年間で1200人余りの学生が履修してくれた。

※写真は、被災地とメディアの有り様を学生たちに考えさせる授業で使っている写真の中の1枚。2007年3月の能登半島地震後に撮影

⇒11日(月)朝・金沢の天気   はれ
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