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EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR南武線

2008年05月09日 | 関東

031229nanbu2057  JR南武線には02年9月14日の東京・新潟方面遠征で、登戸~武蔵溝の口間の区間利用をしている。小田急から東急へと乗り継ぐために南武線を利用したものだが、利用目的がただの鉄とはいえ、南武線がフィーダー路線であることを体験するにはちょうどよい利用方法だった。この後、03年12月29日に全線乗り潰しを行っている。川崎から立川まで乗り潰して、立川から府中本町まで戻り武蔵野線の乗り潰しに取り掛かった。前年に乗った時には103系が多数残っており、103系に当たる確率が高かったが、E231系500番台投入による山手線からの205系の転属により南武線でも205系の姿が多く見られるようになっており、103系の姿はほとんど見られなくなっていた。さらに05年1月9日にも南武線を全線通しで乗っているが、この時には既に103系の姿はなく、205系と209系に統一されていた。十年ひと昔という言葉があるが、日頃見慣れない首都圏の電車の変化は1年ひと昔という感じがする。それに比べれば関西圏の電車の変化というのは如何にもスローであると感じることが多い。

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JR南武支線

2008年05月08日 | 関東

031229nanbu20542  乗り潰しシリーズ再開です。今回はJR南武支線。03年12月29日に乗車しています。鶴見線の本線とセットで乗り潰しました。鶴見線を扇町まで乗り通して、浜川崎まで折り返して、ここからJR南武支線に乗り換えました。南武支線は本数が少なく、乗り継ぎに少し時間がありましたが、駅周辺は工業地帯で何もなく、ホームでぼ~っとしてました。すると貨物線を貨物列車が通過して行きました。事前にリサーチしていればいい画が撮れたのに…何事も前もって準備しておく必要があります。とりわけ撮影は偶然の賜物もありますが、計画してなんぼの撮影が多いのは事実です。道に迷わなければ撮れたのにということが何回かありました。南武支線は鶴見線同様101系とか103系のイメージが強かったですが、私が乗った時には山手線から改造転属してきた205系に全て置き換っており、南武線に103系の姿はありませんでした。205系は本線で活躍していた頃とは違い、短編成でおまけに先頭車化改造された車両が使われており、少々趣きが違った印象を受けます。関西では見られないタイプですが、仙台へ行けば腐るほど走っており、今では珍しくもない車両になりました。まぁ当時はまだ珍しい存在で新鮮な印象を受けたのは確かです。尻手までのごくわずかなトリップを楽しみ、続いて川崎へ戻って、南武“本線”の乗り潰しにかかりました。以降は明日へ…


JR鶴見線

2008年04月17日 | 関東

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 JR鶴見線には2回乗っている。1度目は03年12月29日で、この時は鶴見線の本線と南武支線を乗り潰している。ブルトレ撮影の合間に乗ったという感じで、鶴見駅の橋上から富士を撮って、鶴見線~南武線と渡り歩いて、川崎に出て、川崎ではやぶさ・富士を撮っている。このため、この時は大川支線、海芝浦支線には乗っていない。まだ103系が走っていた時代で、翌年の年末04年12月30日に乗車した時にはほとんど205系に置き換わっていたのには驚かされた。鶴見線は関西にはないタイプの臨海鉄道で、雰囲気的には桜島線や和田岬線に近いものがあるが、路線長が違うし、支線の存在もないので、関西にはないタイプの路線と言える。いずれも年末に乗っているので、車内は閑散としており、いかにも沿線の工場への通勤輸送が主体の路線という感じで、殺風景な車窓が印象に残っている。

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 海芝浦は東芝の工場の専用駅と言った感じだったが、ホームから眺める東京湾は穏やかで殺風景な中でも何か落ち着いた雰囲気のある駅だった。04年訪問時はブルトレ撮影は諦めて、鶴見線乗り潰しに時間をかけたので、ゆっくりと回ることができた。それだけブルトレの数が減ってしまったということも言えた。


JR埼京線

2008年04月14日 | 関東

040815saikyo2057  JR埼京線に初めて乗ったのは小学生の頃で、国鉄がJRに転換する時に発売された謝恩フリーきっぷを利用して東京方面へ行った時に、大宮から赤羽まで乗車している。当初の予定では埼京線など乗る予定ではなく、上野から新特急なすのに乗って、小山まで行き、小山から水戸線を回って、水戸まで行って、水戸から当時は珍しいアコモ改造車が走っていた特急ひたちで上野に戻る行程が組まれていた。同行した近所の中学生のお兄さんが組んだ行程はひ弱な小学生の私にはきつく、上野出発時点でリタイアしたかったのですが、何分小学生のため、単独行動するわけにもいかず、結局みんなで大宮で折り返してもらうという情けない結果になった。その時に大宮から乗ったのが埼京線で、おぼろげな記憶しかないが、新幹線の隣を103系が暴走気味に走る路線というイメージが残っている。暴走というのは大げさな表現で、ただ単に騒音をまき散らして走っていただけということに後になって気づいた。

 その後埼京線にはあまり乗った記憶がないが、学生時代に東京へ遠征した折に、夜行列車までの時間潰しなどで乗車したことがあった。大崎乗り入れ後には乗っていなかったので、それに乗るべく計画を立てて乗車したのが、03年12月29日のことだ。ムーンライトながらで東京入りして、04年春に廃止になるあさかぜやさくらの撮影をするべく、新子安や品川あたりをうろちょろして、合間に鶴見線・南武支線の乗り潰しをして、大崎から埼京線の乗り潰しに挑んだ。大崎から新宿までは空いていて快適だったが、新宿からの混雑は昼間とは思えない関西のラッシュ時以上の乗り具合だった。年末の時期にどこへ行くのかよくわからないが、途中板橋あたりで降りる人が多く、赤羽を出る時には多少余裕がある乗り具合だった。帰省で混み合う新幹線を横目に程よい速度で走り(関西の鉄道ならバカみたいに飛ばせるぐらいの線路を有しているのに)、高架線から地下に下りて大宮に着いた。折り返しは湘南新宿ラインに乗って横浜方面へ行き、川崎に舞い戻って川崎から南武線~武蔵野線の乗り潰しに取り掛かった。


上信電気鉄道

2007年10月18日 | 関東

070908jyoshin2052  上信電鉄には07年9月1日、2日の北関東、信州遠征で乗車している。前週にも北関東に遠征しており、上信電鉄もその折に乗るつもりにしていたのだが、計画を変更して桐生地区の東武各線の乗り潰しをやめて、上州方面と秩父方面の組み合わせで8月25日、26日を消化して、上信電鉄及び信越本線横川方面と上田交通、しなの鉄道、小海線への遠征を9月1日、2日にすることにした。信州方面遠征は北越急行への再遠征と組み合わせて計画していたが、中越地震の影響で急行きたぐにが運休していたので、計画を変更することになった。

 定番のムーンライトながらで東京入りして、当初は池袋へ出て東武東上線の乗り潰しを目論んでいたが、前週に寝過して埼玉新交通の乗り潰しができなかったので、改めて埼玉新交通の乗り潰しをすることにした。前日に関東地方を台風が襲ったため、予定通り行程を消化できるか不安だったが、東京入りまでは特に何の影響もなかった。台風一過で天気が良かったぐらいだった…。大宮で来るか来ないかわからない寝台特急あけぼのを待ったものの、定時に来ることはなかった。HPを見ても運休の表示はなかったので、台風の影響で遅れているのか、あるいはやっぱり運休だったのかよくわからないまま、あけぼのを諦めて埼玉新交通の乗り潰しにかかった。内宿まで往復して、高崎線で高崎へ。奮発してグリーン車に乗ったが、Suicaを持ち合わせないため、自動券売機でしょぼいグリーン券を買って2階席へ。ながらでの睡眠不足を補うべくグリーン車の旅を満喫するというより爆睡のまま高崎へ。大宮で見かけたゆとりが停まっており、関西では見られないEF60が牽引していたので、そそくさと撮影して上信電鉄へ急ぐ。上信電鉄の改札へ行って、切符を購入しようとすると前の客に“昨日の台風で線路に木が倒れて南蛇井から下仁田までバス代行になってます”という予想外の災害を耳にしてしまった。前夜碓氷峠で通行止めというニュースを見ていたので、碓氷峠越えがやばいかなと思っていたが、まさか上信電鉄が不通になっているとは思ってもみなかった。それ以前に改札付近に何の掲示もなく、係員に再度確かめて空耳ではなかったことを確認したほどだ。1日運休程度の軽いものだったみたいだが、代行輸送もやっていることだし、駅への掲示はやって欲しかった。

 南蛇井~下仁田間の乗り潰しは叶わず、かといって他に振り替える予定もないので、とりあえず上信電鉄を乗り通すことにして、南蛇井~下仁田間は代替バスで“簡易乗り潰し”をした。下仁田は風情のある駅舎で電車で訪れたい気がする駅だった。バスの本数も限られているので、恥ずかしながら代行バスでも鉄方式で速効折り返しをした。行き帰りとも古い非冷房の200形で、台風一過でフェーン現象なのか物凄く暑い上州路は地獄の道中といった感じだった。部分運休するわ、往復とも地獄のような暑さやわとあまりいい印象が残らなかった上信電鉄乗り潰しの旅だった。


秩父鉄道

2007年10月17日 | 関東

070902chichibuc583635  秩父鉄道には上州へ遠征した07年8月25日の翌日26日に乗っている。前日上毛電鉄わたらせ渓谷鉄道に乗って、JR両毛線~宇都宮線を乗り継いで大宮まで戻り、大宮で一泊して次の日の秩父攻略に備えて早めに眠った。翌日は予定では早起きしてあけぼのの撮影に再チャレンジして、埼玉新交通の乗り潰しを朝一でして、熊谷に乗りこむつもりにしていた。しかし、早く寝たにも関わらず前日の疲れが相当だったのか、はたまた前週よく働いたのか、または前々日のムーンライトながらでよく眠れなかったのか(これが一番大きい)、自分でもよくわからないが、私にしては珍しく寝過してしまい、あけぼのどころか、予定していた秩父鉄道の行程にもぎりぎりという時間に目が覚めてしまった。仕方なくホテルを出て急いで大宮駅まで行って、予定より1本遅い高崎線電車に乗り込んだ。1本遅くても熊谷で時間調整の範疇という行程を組んであったのが幸いした。やっぱり乗り鉄も撮り鉄も余裕時分をたっぷり取っておくことが大事だ。ここはJR西日本よりもJR東日本を見習っておいた方がよいといったところだろうか。少しの余裕があったので、熊谷の駅そばで朝飯(朝そば?)を食べる。関西ではうどんを好んで食べるが、関東に来て黒出汁のうどんは喰えんということで、関東では好んでそばを食べる。そばだと何となくうまいからおかしなものだ。うどんもひと頃は関東風の出汁ばかりで見るからに黒いうどんが多かったが、近年は讃岐うどん流行りや関西人の東京流出が進み、うどんの方は関西風が多くなってきているように思う。関西風うどんがお笑い界のように関東を席巻する日も近いのでは?と思うのは私だけだろうか。

 そばでお腹を膨らまして、秩父鉄道の改札へ向かい土日限定発売のフリー切符を購入して改札に入る。とりあえず羽生までの乗り潰しをして、折り返し三峰口まで向かう行程を組んでいたので、羽生行き普通に乗る。ホームにはリュックを背負ったハイカーらしき人が多く見られ、三峰口方面の電車に乗り込んでいた。秩父は関東では有数のハイキングや軽い登山を楽しめる地なのだろうか?羽生行きは非常に空いており、日曜なのに高校生の姿が見られるローカル線の風情が見られるような路線だった。東武伊勢崎線の都会風の2面4線のホームが隣接する羽生駅は真新しい橋上駅舎で、自動改札がないのが不似合いなぐらい新しい駅舎だった。一旦改札を出て、急行券を購入して、再び改札に入り、折り返しは専用車両が用意されている急行で三峰口を目指す。鉄っちゃんシートでかぶりつきを試みるが、運転室直後の窓が高すぎて座ったままではとてもかぶりつける代物ではなかった。急行料金を取るのだから、少しは全面展望が楽しめるような構造にして欲しかった。羽生からはほとんど乗客もなく、車掌の急行券のチェックもなく熊谷に着いた。羽生の改札でチェックをしていると言えばそれまでだが、後続に普通もあるので、羽生でのチェックには限界がある。途中の行田市や熊谷までの利用はミスミス急行券を取り逃すことになるのではないかと思う。短距離利用は眼中にないのかもしれないが、それなら羽生~熊谷間は急行券不要など公の処置を取ってほしいものだ。今のままでは中途半端な感じがする。私が乗った列車がたまたま検札に来ないだけだったのかもしれないが…。

 熊谷から大量の乗車を予想していたが、ホームにあふれんばかりの人がいた割に、乗ってきたのは想像を絶するほど少なかった。後続にSLパレオエクスプレスが運転されるので、大半の人はそれに乗るようだった。ホームでカメラを構える人が多いわけはこれだったのだ。とりあえず隣席も空いたまま快適な道中を過ごすことができた。道中SLの撮影地はないかと探しながら景色を眺めていたが、好撮影地にはSL追っかけ族が早くも陣取っていて撮れる箇所がすぐにわかるぐらいだったが、いずれも駅からは遠そうな所ばかりだった。終点三峰口まで行って、秩父鉄道車両公園(無料)を見物して、折り返し電車に乗って、次の駅白久で降りて、ネットで探し当てた駅から近い撮影地まで少し歩いた。付近には既にSL追っかけ族が少し離れた所に陣取っていた。まぁまぁの撮影地と言えるが、駅から近いので文句は言えない。結果は…まぁまぁの出来だが、SL追っかけ族が写ってしまったのが玉に瑕といったところか?撮影後は三峰口でSLの折り返し作業を見ることも考えたが、この時は妙に疲れがたまっていたのでそそくさと退散して、御花畑で西武に乗り換えて東京方面へ戻って行った。


わたらせ渓谷鐵道

2007年10月16日 | 関東

070901watarase2033  わたらせ渓谷鉄道には上毛電鉄とセットで乗り潰しを行った。07年8月25日になる。上毛電鉄の時に書いたように天候は思わしくなかったが、天気が悪いからまた次にしようという場所でもない(はるか遠くの関西から遠征しているので)ので、上毛電鉄を乗り潰して、小雨が降る中、西桐生から桐生まで歩いて(前橋から中央前橋よりもはるかに近かった)、わたらせ渓谷鉄道の乗り潰しに挑んだ。現地に赴いて初めてフリー切符があることに気づき、JR東日本の窓口で購入した。帰りに本宿付近でトロッコ列車を撮ろうと目論んでいたので、ちょうどよい切符があったものだ。大間々止まりの列車が先にあったが、それは立派な高架ホームから出発する光景を見物するだけにとどめ、次の終点間藤まで行く列車に乗り、とりあえず乗り潰しを完了することにした。途中神戸(“こうべ”ではなく“ごうど”と読む)でテレビでも紹介されたことがある元東武特急の車両を流用したレストラン“清流”を見たり、足尾でトロッコ列車や旧JRのやすらぎが移籍したサロンド・わたらせを見たり、なかなか面白い鉄道という印象を受けながら終点の間藤に着いた。足尾から間藤にかけては言葉は悪いが足尾銅山の残骸が各所に見られ、負の遺産として世界遺産に登録しようかという足尾銅山を垣間見ることができた。

 終点の間藤へは鉄道ファンと一部観光客が乗っていただけで、大半の利用者は足尾か足尾銅山観光の起点となる通洞駅で降りて行った。間藤には乗り潰しの神様とも言うべき宮脇俊三氏が国鉄完乗を果たしたという展示があった。小奇麗な駅舎ではあったが、人気は少なく、同駅で折り返す人以外はまばらという感じだった。格言う私もいつも通りそのまま折り返すだけであったが、かつては足尾本山まで線路延びており、それを探検するのも面白いだろう。残念ながら私にはそんな趣味はなく(最近若干興味は持っているが)、そのまま折り返して、とりあえずは前夜のムーンライトでの疲れを取るべく睡眠に励んだ。行きは雨が降ってはいたものの小康状態といった感じで、小ぶりの雨だったが、折り返しの道中は大雨だった。このため、途中本宿で降りて有名な撮影地でトロッコ列車撮影を目論んでいたが、雨と疲れで“や~めた”と即決した。本宿は桐生からも結構近いので、東武の乗り潰しの際に寄れたら撮影しに行きたいところだ。


上毛電気鉄道

2007年10月15日 | 関東

070901jyomo7233  上毛電鉄は07年8月25日の上州遠征の際に乗り潰した。ムーンライトながらで東京に着いた時から雲行きが怪しかったが、前橋に着いた途端に雨が降り出す不運。JR前橋から上毛電鉄の始発駅中央前橋まで雨の中を徒歩移動。推定徒歩15分といったところで地図を見ていたが、迷うことはなかったが、目と鼻の先というわけではなく、目に見えぬ目的地へ行く時は実際かかった時間以上に体感所要時分はかかったように思える。往復歩けば、体感以外の実際の所要時分もつかめるだろうが、一回歩いただけでは歩いて何分と言い切るのは難しい。撮影地ガイドで徒歩何分という記述を参考に撮影地へ出向いてみると想像以上に遠いことが多い。帰りに歩くとなるほどそんなもんかと思うことが多々あるが、行きは初めてで撮影したい列車の時間に合わせて焦りながら歩くということもあるので、やはり体感所要時分が掴み辛いところはある。乗り鉄も撮り鉄もこの辺りは共通で、初めて訪れる地では焦ることがないように時間に余裕を持ってなおかつ事前準備を万端にして行動するのがベストと言える。書くだけ書いておいて全く事前準備ができていないので、最近現地で困る事態が間々ある。

 この時は何とか中央前橋に余裕を持って到着できて、予定よりも1本早い電車に乗ることもできたが、駅でゆっくりしようということで1本見送って次の電車に乗り込んだ。地方鉄道ではおなじみの元京王3000系が使用されており、次発の電車には車内に風鈴が付けられた風鈴電車が充てられていた。到着した電車からは自転車を押した“おかあちゃん”や高校生が降りてきた。自転車ごと乗車が近年地方鉄道で流行っており、熊本などでもナマで見たことはあったが、空いているからできる技なのかなという気がいつもしている。混んでいる電車に自転車を乗せるのは…論外だろう。高校生などは通学電車に自転車が乗せられたら便利という子もいることだろうに。

 上毛電鉄の印象は乗車前には上州の一ローカル私鉄というイメージしかなく、特に思い入れもなかった。実際乗ってみても雨が降って景色がよく見えないということもあり、あまり印象的なところはなかったが、途中東武と連絡していることもあり、乗り継ぎ用のパスモの読み取り機があったのが唯一印象に残っている。上毛電鉄自体がパスモに参加しているわけではないが、これを足掛かりに導入という向きにまで行けばしめたものだろう。


JR両毛線

2007年10月10日 | 関東

070901ryomo115t1045  JR両毛線は05年9月10日と07年9月1日の2回乗車している。05年9月10日は全線乗り通しており、急行きたぐにで直江津に入り、北越急行~上越線と乗り継いで、吾妻線を乗り潰してから両毛線乗り潰しにとりかかり、その勢いで?小山からさらに水戸線も乗り潰して、水戸に宿泊している。この頃はちょうど両毛線開業120周年記念で、115系にはそのヘッドマークが取り付けられていた。両毛線=115系のイメージが強く、他の車両が走る路線ではないと思っていたが、107系や211系の姿も見られ、朝夕には前橋までE231系の乗り入れもあるようで、185系特急あかぎなど結構多種多様な車両が走る路線のようである。

 07年9月1日は両毛線がメインではなく、周辺路線の上毛電鉄、わたらせ渓谷鉄道の乗り潰しが目的で桐生周辺を訪問した。両毛線には新前橋~前橋間と桐生~小山間に乗車している。当初計画では桐生から高崎経由で大宮まで戻る予定にしていたが、雨が降っていたのでわたらせ渓谷鉄道での撮影を断念して予定が早まったので、小山経由で大宮へ戻ることにした。車種が増えて211系の姿が多くなった感があったが、乗ったのは115系でまだまだ同車が両毛線の主力車両であることには変わりないようだ。主要路線へのE231系投入はひと段落ついているので、今しばらくは115系の活躍も見られるだろうが、本線系の211系置き換えが進めば、両毛線などで使用されている115系が置き換えられていく可能性もあるだろう。


JR高崎線

2007年10月09日 | 関東

041231takasaki231u529  JR高崎線を乗り潰したを達成したのは、学生時代にムーンライトえちごで新津から新宿まで夜行軍した時だ。95年夏のことで、この年には上下のムーンライトえちごのお世話になっている。学生時代は居住性が悪く、座席指定ではなかった165系大垣夜行を敬遠して、東京遠征には好んで北回りをして同じ165系でも居住性に優れたムーンライトえちごに乗っていた。しかし、高崎線に乗るのはムーンライトえちごに乗る時だけで、ず~っと昼間に乗ったことはなかった。初めて陽のある時間帯に乗ったのは八高線の乗り潰しをした04年12月30日のことで、八高線で高崎まで出て折り返し湘南新宿ラインで東京方面へ戻っている。この時も日暮れの早い時期の夕方に乗ったので、高崎線の旅を楽しんだというわけでもなかった。電車は既にE231系に置き換わっており、途中人身事故の発生の案内を電光掲示していたのが目新しかった。

070901takasakief81138akeb2  その後も高崎線は大宮近辺で撮影するだけということが多かったが、07年8月25日~26日の遠征では上毛電鉄、わたらせ渓谷鉄道の乗り潰しをするために、高崎線を利用することになり、上野、大宮~高崎まで往復している。ムーンライトながらで東上したので、途中宮原であけぼのの撮影をしたが、北陸、能登は運休中のため撮影はできなかった。高崎線は線形がいい路線というイメージだが、その割にあまり速く走らないというイメージもある。国鉄時代は今よりもっと流していたのかもしれないが、E231系は結構な速度で走る区間が多い。JR東日本も変わりつつあるのだろうか。また、看板の特急列車がほとんど新幹線化されてスジが空いたので普通の待避が減ったのも沿線住民にとってはプラスと言えるだろう。26日も大宮に泊まって、熊谷まで高崎線に乗って秩父鉄道の乗り潰しに出ている。高崎線は秩父鉄道への貨物列車などの運転もあり、想像以上に貨物列車の運転が多い。かつてはEF65-500が牽く貨物の写真をよく見かけたが、今はEF210の姿が多い。EF210は関西では腐るほど走っているので、EF65-500やEF64-1000など物珍しい機関車を見ると少々感動を覚えるが、たいていはEF210というのが多かった。

070908takasakief60192  07年9月1日、2日にも同じような行程で北関東に遠征している。この時は上信電鉄や上田交通などの乗り潰しがメインで、前週に乗りそびれた埼玉新交通に乗って、大宮から再び高崎線で高崎に出て上信電鉄の乗り潰しをしている。この時は奮発してグリーン車に乗車している。スイカを持ち合わせない田舎者は自動券売機でしょぼいグリーン券を事前購入して、乗車してアテンダントのチェックを受けなければならない。利用は少ないだろうが、イコカでも乗れるようにして欲しいものだ。高崎線はもともとグリーン車の連結などなかったが、湘南新宿ラインが運転され、東海道本線との直通が頻繁に行われるようになり、同線でのグリーン車需要を満たすという意味と高崎線や宇都宮線からの遠距離利用へのサービスも兼ねてめでたくグリーン車が連結されるようになった。上野口の211系にもグリーン車が連結されているが、平屋建てのグリーン車も見られ、ファンにとっては多種多様で見ていて楽しいが、利用する側からすると2階建てグリーンの存在は大きく、魅力的だ。とはいっても地元関西では似たような車両に別料金不要で乗ることができるし、2階建て車両自体は昔から見飽きるほど見てきたので、さして物珍しくないと“言い張って”おく。いずれにしても没個性のE231系の中で、2階建てグリーン車はより一層目立つ存在となっていることは確かで、思わず乗ってしまうものを持っているとのではないかと思う。


東急東横線

2007年06月26日 | 関東

050504tokyutoyoko9003  東急東横線に初めて乗ったのは97年夏の東京遠征が最初だ。この時は渋谷から菊名まで乗って、横浜線に乗り換えている。この頃は特に私鉄の乗り潰しとりわけ関東の私鉄にはあまり興味がなかったので、本格的に乗り潰そうという気はなく、なにげに乗っただけだった。

050504tokyutoyoko51522  次に乗ったのは98年夏の東京遠征で、この時は珍しく新幹線で東上して、京急や横浜市交に乗って、関内まで行って、横浜スタジアムで横浜-阪神戦のチケットを入手して、JRで渋谷まで出て渋谷から桜木町まで東急の急行を乗り通している。97年に乗った時はずっと寝ていたので東急の印象は何も残っていなかったが、イメージとして遅い急行だけが走る阪急宝塚線のような路線と言うイメージを持っていた。しかし、乗ってみると案外走る感じを受けた。比較対象が阪急宝塚線だからちょっと速く走れば案外走るなという印象になるのかもしれないが、少なくとも阪急宝塚線急行より走るというイメージに変わったのは確かだ。この時は桜木町から京浜東北線に乗り換えて関内へ行って、横浜スタジアムで横浜-阪神戦を観戦して、その日の臨時大垣夜行で岐阜へ出て、岐阜から高山本線を北上して北陸へ抜けている。野球の方はこの年は横浜がちょうど日本一になった年で、阪神が初回に大量点を奪い、藪が完投ペースで投げていたが、予想通り6回だか7回にいつもの藪に戻り、あっという間に同点に追いつかれて延長戦に入ってしまった。私は大垣夜行に並ぶ時間があったので試合は途中で辞して座席確保に品川駅へ向かったが、翌朝新聞を見ると見事に阪神はサヨナラ負けを食らっていた。それから5年後阪神タイガースがセリーグ覇者となろうとはその時は全く考えもつかなかった時代だ。今年の阪神はあの時も戻った感もあり、暗黒の時代を知り尽くしたオールドファン?としては懐かしい思いがする。

050504tokyutoyoko8692  東急東横線にはその後、02年の東京遠征の際に蒲田から多摩川線で多摩川へ出て、同駅で少し撮影をして自由が丘まで出て、同駅から大井町線に乗って二子玉川まで行き、田園都市線に乗って溝の口まで行って同駅で撮影後、南武線に乗って登戸から小田急線に乗り、首都圏私鉄撮影行脚をしている。その後東横線に乗ったのは05年5月4日の東急乗り潰しの際に全線を乗り通し、みなとみらい線の乗り潰しも達成している。この時も多摩川で撮影を行っている。


JR武蔵野線

2007年04月18日 | 関東

031229musashino10335  武蔵野線に初めて乗ったのは京葉線の時に書いたように1996年夏の東京遠征の際に一つの目的であった中山競馬場訪問の際に京葉線の市川塩浜から船橋法典まで乗っている。帰りはどこまで乗ったか失念したが、同じルートを通ったような気もする。この時はちょうど夏場の競馬開催で新潟競馬場が改装されていたため、代替開催として中山競馬場で新潟2歳S(当時は3歳Sだった)が行われた時に訪れ、メインレース前のレースを見事GETして、大垣夜行で帰るつもりだったのを奮発して銀河に変更したのを覚えている。今から思えばもっと違うことに金をかければ…と思うが、この頃は夜行慣れしてなかったところもあり、座席夜行とりわけ165系のボックスシートなどはもってのほかという甘ちゃんだったので、楽をするために銀河に乗ったという面はあった。

 このとき以降武蔵野線に乗ることもなくしばらく経ったが、乗り潰しを意識してから全区間に乗っていないということで最初に乗った時に時間があったのだから全部乗っておけばよかったと後悔していた。学生時代はとりあえず乗り潰しを目的とはしていたが、あまり厳密に全路線に乗ろうと気合いを入れて活動はしていなかった。ホームページを作り始めてから本格的に乗り潰しを意識し始めたのだが、関東方面はあまり趣味的に興味がなかったので、しばらく手つかずの状態になっていた。再び武蔵野線を訪れたのは2003年12月29日の関東乗り潰し遠征で、この時は周遊きっぷを利用しての東上だったが、南武線を乗り潰して立川から中央線で西国分寺へ行き、武蔵野線で府中本町へ一旦戻ってから、府中本町から武蔵野線乗り潰しの旅を延々と西船橋まで続けた。このときはたまたま来た103系を乗り通したが、その後103系が姿を消してしまったのである意味いい記念になった。西船橋から先は京葉線に入って、撮影などを行い、りんかい線に乗って、大崎~新木場間を往復して、蘇我まで京葉線に乗って、蘇我から折り返しビューさざなみに乗って周遊きっぷを有効に使っている。武蔵野線にはこれ以降乗っていない。


京急本線

2007年04月17日 | 関東

050110keikyu2411  京急本線に乗ったのは1996年夏の東京遠征のときだ。関東私鉄に乗ったのはこの時が初めてで120km/hでかっ飛ばす京急の快特に乗るのが東京遠征の目的の一つであったのでそれを達成してとりあえず満足して帰ることができた。乗るだけではなくその気合いの入った走り、運転士のきびきびした所作など当時没落感があった関西私鉄が忘れてしまったような所謂“関西の鉄道らしい”場面が京急に多々見られたのには非常に驚いた。但し最初に乗った時は転換クロスの2100系はまだ登場前だったので2000系の固定クロス車だったので、この点については関西に比べると見劣りする感じはした。それでも運転席直後のクロスシートは京阪特急同様まさに鉄っちゃんシートで鉄っちゃんにとっては天国のようなシートだった。京急の走りは走り始めが阪神、中高速域が阪急、高速域でののこぎり運転はJR西日本の新快速を彷彿させるものだった。こう言えばいいことづくめだが、複線なのに前が詰まらず走る様は関西私鉄も見習ってほしい面が多々あったのは事実だ。

050503keikyu10332109  初乗りは久里浜から品川まで乗ったが、その後も東上すると京急に乗ることは多かったが、品川~横浜間の乗車が多く、なかなか横浜以南の乗車機会はなかなかなかった。とりわけ本線の堀之内~浦賀間は放置したなりで乗り潰すつもりもあまりなかった。2100系が登場してさらに京急への評価は高まった感はあったが、たまに乗る分にはいいものの、しょっちゅう乗ると粗も目立つのだろうという気はしていた。

 1997年の東上の際や1998年の東上の際にも京急には乗っている。いずれも品川~横浜間や上大岡まで足を延ばす程度だった。2001年末に東上した時に北品川で少し初の撮影を行い、2002年9月に東上した時には撮影を中心に品川~横浜間で乗車している。この頃は私鉄の乗り潰しにまでは手が回っておらずとりあえず関東の私鉄見聞程度に撮影や乗車をしていたので、本線の乗り潰しも未だ達成できていない状態だった。

050504keikyushinagawa2  京急乗り潰しを意識したのはとりあえずJR乗り潰しにある程度目処が付いてきた2005年5月の連休の関東遠征で、このとき初めて京急本線を乗り通すことができた。それ以降地方巡りをしていたこともあり、東京遠征をしていないので、京急に乗る機会もない。1000系ステンレス車など目新しい車両も出てきているのでまた京急を訪れたいものだ。


JR総武快速線

2007年04月16日 | 関東

050403sobu217f16  JR総武本線に初めて乗ったのは1996年夏の東京遠征の時に、早朝ムーンライトながらを降り、どこへ行くともなく、夜が明けるまで適当にどっか乗りに行こうということで、たまたま地下ホームが目に入ったので、総武線に乗ったというのが総武線初体験であった。東京から千葉までE217系快速に乗って、外房線に乗り換えて蘇我まで行って、折り返し京葉線に乗って新木場まで行ったはずだ。新木場から東京臨海高速鉄道に乗り、国際展示場でゆりかもめに乗り換えている。

 初乗りの総武線は早朝の暗闇の中だったのであまり景色を堪能したという感じではなかった。2度目はおそらく1997年の東京遠征の時で、この時は快速エアポートに乗って成田空港までの初乗りをしている。折り返しは京成に乗って、成田空港で何のために来たのかと身分証明書の提示を求められ、空港見学とか適当に言ってその場を切り抜けて、さっさと京成に乗り換えて折り返したのを覚えている。まさか鉄活動で乗り潰しのために来ましたと真面目に言うわけにも行かないので、以降鉄活動で成田空港へ足を運ぶことはほとんどなかった。

 総武線を久しぶりに訪れたのは2005年の3月31日、4月1日にかけての房総遠征だ。この時総武線全線乗り潰しを達成している。それまで終点の銚子まではなかなか足を延ばせなかったということだ。この時感じたのは房総地区の運転士の態度があまりよろしくないということ。昼間からトンネルもないところで幕を下ろして同乗の運転士とだべりながら運転する光景もよく見かけたし、片手運転が常態化しているのでは?という節さえ感じられる面もあり、乗務態度があまりよろしくないという印象が強く残っている。そういうことで総武線初め房総各線にはあまりいい印象を持っていないのが実状だ。


JR京葉線

2007年04月12日 | 関東

031229keiyo20523  JR京葉線には1996年夏の東京遠征のときに東京から武蔵野線分岐点まで乗車している。京葉線は新しい路線で海沿いの高架を走る写真を見ていたので、一度乗ってみたいと思っていた。実際乗ってみると103系が爆音を発して爆走していたので、景色を楽しむより関西並みの103系の走りを楽しんだものだ。このときは中山競馬場へ行くのが主目的だったので、途中武蔵野線に入る快速を選んで乗っている。武蔵野線のオレンジの103系だったと思うが、京葉線オリジナルの205系に乗りたかったのでちょっと残念だった。

 京葉線にはその後何度か乗って、蘇我まで乗り通しているが、高架線を走り見晴らしが良い路線だが、あまり景色を見ることを意識した造りではない103系を使用していたので、景色がよく見えたという印象はあまりなかった。2003年12月29日には周遊きっぷで関東地区の路線を乗り回した時に、周遊きっぷのメリットを活かして蘇我から東京までビューさざなみに乗っている。255系に乗るのは初めてだったが、年末の夜の上りだったので狙いどおり空いていたのでゆっくり乗車することができた。そのあと同じ手を使って新宿から八王子まで行きはE257系あずさ、帰りはE351系スーパーあずさに乗車している。

 京葉線にはその後2005年4月1日に東京から蘇我まで103系快速に乗車している。京葉線というか関東地区で最後の103系乗車となったが、201系や205系はまだ乗っていないので、早いうちに乗っておきたい。試験運用がうまくいけばE331系の量産型が京葉線に投入されるはずだから、それらの車両も早めに乗らなければなくなってしまう可能性がある。JR東日本はJR生まれの209系が置き換わるぐらいのスピードで車両の置き換えを展開しているので、のんびりしている西日本のペースで考えていると浦島太郎になってしまう。