JR外房線には05年4月2日と同4月3日に乗車している。房総遠征の2日間に乗車したわけだが、どちらも半端な乗車となった。というのもかぶりつき派の私にとっては房総地区の昼間でも運転室のカーテンを閉める慣習にやられた道中ばかりだったからだ。外房線では半島を走るためトンネルも数か所あったので、その部分で閉められるのも仕方ないと思うが、トンネル区間を抜けてもまだ閉めたまんまで全く前かぶりができない状態だった。車掌室はさすがに閉めないだろうから後ろかぶりをすればよかったのだが、当時はなぜか前面かぶりつきに拘っており、後ろかぶりでもよいという感覚がなかった。4月2日はいすみ鉄道帰りに大原から大網まで乗り、4月3日は安房鴨川から千葉まで全線完乗している。安房鴨川から勝浦までは255系普通列車に乗車できた。特急ならかぶりつきもできそうかなと思っていたら大間違いで、255系もトンネル区間のためか、全面的にカーテンを閉めた状態で全く前が見える状況ではなかった。勝浦から乗り継いだ113系もほぼ同様で、仕方ないので座って眠りにつく詰らない道中となった。房総ではまだまだ113系が幅を利かしており、カーテンを閉める口実を作らせる車両ばかりとなっている。新型のE231系のような車両でもなおカーテンを閉めるのかどうかわからないが、早く房総にもJR型の新車を投入してかぶりつきができるようにして欲しいものだ。そうなればもう一度リベンジに訪問したいと思う。
05年4月2日房総遠征。ムーンライトながらで東京入りしてJR久留里線の乗り潰しをして、木更津から五井へ向かい、五井から小湊鉄道の乗り潰しに取り掛かった。内房線からの乗り換え時間が少なく、車内は既に席が埋まりつつある状態で、かぶりつきのポジションにもつくことができず、とりあえず席についた。前日夜行移動の影響で道中の大半を目を閉じた状態で過ごしてしまった。特に見るべきものはなかったようにも思えるが、近年小湊鉄道の写真や映像を見かける機会が多くなり、首都圏近郊のローカル路線として一般にも人気が出るようになってもう少しよく見て回ればよかったと後悔している。小湊鉄道はもう一度じっくり乗りにいきたいというか乗らなければならない路線の一つと言える。
JR久留里線には05年4月2日に乗車している。長年手付かずで置いていた房総遠征の際に乗車したもので、房総には後にも先にもこれ1回しか行っていない。近いようで遠いというイメージがあり、関西で言えば紀伊半島のイメージがあり、遠征に時間がかかる印象があるためあまり足を踏み入れないといったところだ。この時も乗り潰しテンコ盛りにして、2日間で房総半島のほとんどの路線を乗り回して、後に残さないようにしている。久留里線にはムーンライトながらで東京入りして、早朝千葉まで移動して、早々に乗車している。初乗り入れの木更津で、あれが有名なアクアラインかなどと少々田舎者じみた感激を思いながら久留里線に乗りこんだ。こんなところでキハ30に初乗車するとは夢にも思っていなかったが、オリジナルとは異なる様相のため、当初はキハ30とは気付かなかった。首都圏からすぐそこのこんなところにまだキハ30が…と思いながら久留里線の道中が始まった。やけにのんびりした道中で非常に足が遅い列車だった記憶があり、キハ30系どころか道中でタブレット交換をするのにはさらに驚いた。こんなところでこんな光景が展開されているとは夢にも思っていなかった。予習せずに現地に行くと驚きが連続することがあるが、その分じっくり見ることもできない。久留里線には往復乗ったのでじっくり見ることができて大変満足することができた。房総では他の路線があまりじっくり見れていないので、唯一満足できる乗り潰しができた路線とも言える。
京急大師線には05年1月10日に乗車している。この日は大井町のビジネスホテルに泊まり、早朝から意気込んで大井町のホーム端でブルトレ撮影をして、地震の影響で遅れた銀河や出雲、あさかぜなどを撮影し、川崎ではやぶさ・さくらを撮って、京急川崎から京急大師線の乗り潰しに取り掛かった。京急川崎は本線は2面4線の高架駅だが、大師線は高架下から発着しており、それまで京急本線に乗ってもその姿を見ることはなかった。高架下のホームに行き、お大師さんへ向かう人波に少し驚いた。関東ではお大師さん参りはメジャーらしく、正月三箇日もとおに過ぎたこの日も参拝者が多いようだった。このため大師線も増発が図られており、乗り潰しするのはいつもより容易だった。終点の小島新田まで乗り通す人は少なく、駅前には貨物線が通っており、京浜工業地帯の真っただ中にいる様相だ。ここから羽田方面へ延長する計画などもあるようだが、そうでもしないと利用者は頭打ちになるだろう。ただ、空港アクセス列車を走らせるには少々カーブがきつく、決して本線級とは言えない線形が足を引っ張るような気もする。工場地帯にぽつんとたたずむ終点の小駅で折り返して京急川崎へ引き返した。
JR八高線は八王子と高崎の間を走る路線で、八王子から高麗川までが電化されており、この区間は川越線と一体化した路線というイメージだ。高麗川から高崎までは非電化路線だが、キハ110系が走るためローカルなイメージよりも都市近郊を走る軽快なローカル線?というイメージがある。私は高麗川~高崎間は04年の年末に1度だけ乗車しているが、夕方近くの列車は高校生を中心に利用が多く賑やかな車内だった。八王子~高麗川間は2~3回乗っているが、八王子を出ると利用者は漸減していき、高麗川へ着く頃には結構寂しい車内になっていたような気がする。列車の本数や両数が違うので高麗川以北とは比べようもないが、ここまで来ると首都圏の勢いもさすがに衰えるなという印象を受ける。それでも朝ラッシュ時などには高麗川から中央線直通の快速が運転されていたりするので、東京への通勤圏であることには違いない。
[E:wobbly] JR川越線には2回ほど乗車している。学生時代に川越を訪問した時は西武と東武を利用しているので、JRに乗ったのは社会人になってからだ。大宮~川越間は埼京線の延長線のような路線で、205系10連が闊歩する都会的な雰囲気がする路線だ。もっとも途中から単線になるし、指扇という小難しい駅名止まりの電車があったりと埼京線とは違い、明らかにローカルな雰囲気を持つ路線でもある。川越から高麗川までは八高線と共通運用の209系や205系4両編成が使用されており、ローカルムードが漂う。雪が降る寒い日に川越~高麗川間に乗車したが、各ドアが個別開閉になっているにも関わらず、車内の暖房が全然効いておらず車内で物凄く寒い思いをしたのを思い出す。関西の電車は暖房も冷房もガンガン効かせている印象があるが、関東の電車は冷暖房も節約しているのだろうか?ちなみに乗車した電車が209系だったので、暖房も半分なのかと思ってしまった
東武日光線は04年8月15日にJR日光線の乗り潰しをした折り返しに乗車している。この時は東武宇都宮線の乗り潰しをしたので、東武日光~新栃木間の乗車となった。東武日光から6050系快速に乗りこんだが、車内は行楽帰りの人で一杯。さらに下今市で会津方面からの列車と併合してさらに混雑。車内ではあまり身動きがとれぬまま新栃木へ。鬼怒川温泉方面へ乗る時にじっくり景色を見ればいいと思っていたが、05年10月9日に遠征した時には生憎の雨。浅草からじゃじゃぶりの雨の中を走り、鬼怒川温泉を過ぎたあたりで漸く雨が止むという最悪のパターンだった。このため、東武日光線をはじめ、伊勢崎線、鬼怒川線はろくに景色も見ていない。それにしても05年に乗った時もハイカーと思しき人やゴルファーなどがたくさん乗り込んでおり、観光行楽路線のイメージは2回乗っても強いものがあった。逆に平日は空いているのではないかと思うが、平日に乗る機会はおそらくないので確認することはおそらくできない。
東武宇都宮線は04年8月15日に乗り潰しを達成している。東北からの帰りに寄り道として栃木県内でJR烏山線、JR日光線に乗って、東武日光線で東武鉄道に移り、栃木で東武宇都宮線に乗り換えて、そのまま東武宇都宮まで全線乗り通した。東武宇都宮からはというと、地図上では歩けない距離でもないだろうと前日に確認を入れて、徒歩でJR宇都宮まで移動した。地図も持たずに前日に見た地図と東武宇都宮駅近くにあった地図を頼りにJR宇都宮方面へと歩いてみた。想像以上に距離があり、途中何となく迷ったのかどうかさえ分からないまま商店街などを歩き続けて漸く新幹線の立派な高架ホームを見つけてほっとしたのを思い出す。宇都宮の市街地にはやはり餃子店が多く、つい立ち寄りたくなったが、時間がおしていたので餃子は断念してそそくさとJRで東京方面へと移動した。
東武宇都宮線は昔は青い帯も付いていない豆腐みたいな車両という印象の5000系などが主力で走っており、伊勢崎線などの本線系統から外れた路線だけに古い車両ばかりが集められている印象を受けた。地元の阪急も大概古い車両を使っているが、東武をはじめ関東の私鉄の古い車両は阪急の古い車両とは大変レベルに差があるように思える。もちろん阪急のほうが現在でも十二分に通用するだけの内装の造りと十分な性能を有しているように思うのである。
JR日光線には04年8月15日に帰りがけの駄賃として東北本線を仙台から南下する途上に乗車した。黒磯から宇都宮線で南下して、宝積寺で途中烏山線の乗り潰しをして、烏山線からの直通列車で宇都宮に到着した。宇都宮からは107系日光線電車に乗って日光線乗り潰しへ。想像していたよりも駅間距離が長く、乗車時間も結構長かった。観光都市日光への路線なのに107系という中途半端な車両を走らせているのはどうかと思うが、JRも東武への直通特急を走らせて日光線を見離した感さえある。この当時はまだスペーシアの新宿乗り入れは実現前だったが、この頃からJRは日光線にやる気を見せていなかった。終点の日光には臨時快速用の183系が停車していたが、それが唯一の目玉で、定期列車でない点が如何にも力が入っていない感じがした。日光は写真のように荘厳なレトロ調の駅舎があり、伝統を感じさせるが、如何せん東武日光に比べて人が少ないのは残念なところだ。
東京遠征話を挟み再び04年夏の遠征話に戻ります。新潟から磐越・東・西線を乗り通して一気に福島の浜通りに出て、いわきから常磐線を南下して大甕へ。常磐線の我孫子以北もこの時が初乗りで、415系には九州で乗っているので特別な感慨はなかった。ゆったりしたというかトロいダイヤを走り、漸く辿り着いたという感じで大甕に着いた。日の入り前の時間帯で夏祭りがあったのか日立電鉄はそれなりの利用があった。この時点で既に廃止の噂があったので、さぞかし車内は寂しいだろうと想像していたので、やや面喰ったところもあった。区間によってはまだまだ見限るのはまだ早い感じがしたが、次の年の春に廃止になってしまったのは残念なところだ。利用者はまだいるが、車両や駅施設はやる気がなさげで、営団からのお下がりの電車も汚く草臥れた印象で、この先のやる気のなさを表しているようだった。
今日から3連休ということで、暑い中首都圏へ遠征しています。私鉄の乗り潰しとブルトレ撮影が目的の遠征です。ながらで東京入りする予定でしたが、アクシデントで予定変更。朝2番ののぞみで東京入りしました。今回は18を使わないので、新幹線特急料金分の差なのでそれほど経済的には痛くないですが、スーパーレールカーゴを撮りたかったので時間的損失が大きかったです。新幹線を品川で降りて早速品川ではやぶさ・富士を撮影。撮りにくい駅ですが、緊急撮影地としては重宝します。撮影後は私鉄乗り回しへ。今日は東急の乗り残し路線と多摩モノレールの乗り残し区間、横浜地下鉄グリーンラインなどに乗りました。今日の締め蒲田ではやぶさ・富士を撮って熱い1日を終えました。
JR武蔵野線には03年12月29日に初乗車している。JR南武線の乗り潰しを達成した後、立川で奥多摩そばを食して中央線で西国分寺まで行き、ここから武蔵野線でいったん府中本町へ戻り、府中本町から一気に西船橋まで乗り潰した。西国分寺で山手線から転属したVVVF改造の205系を見て、205系が来るのかと思いきや関西ではお馴染みの103系が来た。その当時から関東では少数派になっていたが、今となっては懐かしの103系ということになる。懐かしの103系も関西では懐かしいどころか騒がしいという言葉ぐらいしか出てこない。関西ではまだまだ103系がバリバリの現役だ。武蔵野線の103系も関西ほどではないが、それなりに元気な走りを見せていた。関東の電車は余裕時分をたっぷりとって走るので、通常はよく言えばおおらかな走り、悪く言えばとろい走りをするが、武蔵野線は京葉線ほど轟音を立てては走らないもののそれなりのスピードで走っていたように思う。もっともその前に乗った南武線がかなり遅かったので、武蔵野線が若干速く感じたのかもしれない。