生を享けて、いきなり自分としての意識はない。ひたすら、親なり周囲の人間たちを無意識のうちに観察し、徐々に、自分意識を獲得していく。
うっすらではあるが、母親の背中にいた記憶がある。首筋からの「後れ毛」がうっとおしかった記憶である。
その時の自分という意識は、今に至るまで、連続しているような感覚がある。客観的な、少しシニカルな感じがある。
喜びに溢れて、期待に満ちてというのではなく、どこか、観察的である。小学校へ入学前の記憶は、かなりある。
母親が、近所の「友達」と話している。道端である。退屈しながら、チンポコをいつのまにか触っている。それを、「友達」が指摘する。
平気な顔を装っているが、見つけられたという狼狽感を覚えている。平気な顔をしている気分も覚えている。
触るのは、母親にアッサリと注意されて、すぐに止めたが、二人の話は続き、退屈な状況が、それに影響されずに続いた。
母親が、それを気にする様子がなかったことが、印象的だった。それほど、悪いことではないのだ、という安堵感に似た感情があった。
それでも、以後、まったく人前では、触ることはなくなった。「そういうことはしてはいけない」という価値観が、生まれたのだろう。
うっすらではあるが、母親の背中にいた記憶がある。首筋からの「後れ毛」がうっとおしかった記憶である。
その時の自分という意識は、今に至るまで、連続しているような感覚がある。客観的な、少しシニカルな感じがある。
喜びに溢れて、期待に満ちてというのではなく、どこか、観察的である。小学校へ入学前の記憶は、かなりある。
母親が、近所の「友達」と話している。道端である。退屈しながら、チンポコをいつのまにか触っている。それを、「友達」が指摘する。
平気な顔を装っているが、見つけられたという狼狽感を覚えている。平気な顔をしている気分も覚えている。
触るのは、母親にアッサリと注意されて、すぐに止めたが、二人の話は続き、退屈な状況が、それに影響されずに続いた。
母親が、それを気にする様子がなかったことが、印象的だった。それほど、悪いことではないのだ、という安堵感に似た感情があった。
それでも、以後、まったく人前では、触ることはなくなった。「そういうことはしてはいけない」という価値観が、生まれたのだろう。
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