文藝春秋1月号に、「日本はどこで間違えたか」をテーマにして、「大アンケート」を識者30人にとっている。その冒頭に石原氏の「無条件降伏の過誤ー1945年8月」の意見がある。
曰く、ドイツは無条件降伏をせずに、新憲法はドイツ人自身が作成する、教育指針もドイツ自身が決める、としたが、日本の場合は、無条件降伏をうけいれて、その結果、憲法を押し付けられ、教育については、「日本の近代史をすべて否定し、自己嫌悪を造成する教育の徹底」がおこなわれた、とし、そこが、日本の間違えたところだとする。
無条件降伏以外の選択肢があったのかどうかが、まずは問題であるが、「・・・アメリカの囲い者として、さまざまに収奪されつくし、国家としての実質的な主権を失い、民族の個性までを毀損されてきた・・・」とするのは、事実だろうか。
日本が、世界で占める経済的地位は、たいしたものであるのは、間違いないとしても、もっと成功しているはずだ、というのであろうか。おしつけられた憲法のおかげで、少なくとも、アメリカの戦争に全面的に付き合うことをしないで、囲い者でありながら、平和について指導的な国になりうる状況になってきているのではないか。
日本の誇る個性とは何だろうか。制度、仕組みというより、自己犠牲、助け合い、思いやり、繊細な感性や、このたびの東北大震災で見せた国民のふるまいなどが、日本の個性ではないだろうか。
とすれば、日本として、国家、民族をこえて、平和を主張し、世界にすすむことにある。彼の言う「他愛のない理念を謳った」憲法前文は醜悪ではないし、それこそタカラモノである。
だが、一本道ではない。彼のような存在が、むしろ、単なる「囲い者」ではないことの「効果」を発揮する。絶対多数は、困るけれども、おそらく山葵のような役割もあるともいえる。
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