世代間で、「常識」は変わる。タレントのヒロミが、テレビで言っていた。先輩に誘われたら、デートの約束があったにしろ、素直にその誘いにのるのが当然で、断ることなんて考えられなかったという。
ところが、最近の若い人は、そうではないという。しばらく芸能界から外れて、ビジネスの世界にいたヒロミは、従業員に慰労の意味で、食事会をしたりしていたが、その飲み食いした翌日に、退職を切り出されたりする、そんなら、食事会の誘いにのらないはずだと思うのだが、それはそれ、これはこれと、区別するというのだ。
食事会の誘いは、嬉しいから、のるけれども、退職の話とは別だと考えているという。たしかに、阿吽の呼吸とか、長幼の序とか、そういうことは、伝わらなくなっている。
これは、ある意味「恐怖」からの自由ともいえる。しがらみや、もろもろの個人の意思をしばるものから自由なのだろう。功罪があって、その傾向でいいのかどうかは、時間がかかる。
北朝鮮では、粛清が続いているという。権力を背景に、従わないもの、その疑いを持たれるものは、殺してしまえば、後釜はいくらでもいるというわけだ。恐怖で、支配態勢を維持しているのである。
本当だとすれば、こんな馬鹿げたことが続くはずがない、と誰もが思うのだが、結構社会では普通のことではないのだろうか。その程度の人類社会であるということだ。富者は、貧者を食い荒らして平然としている。その仕組みを、ますます強化している。