人間とは違うが、猿回しの猿と人間の関係で、「ネキリ」という言葉を聴いたことがある。人間の命令に、猿は背く、それを従わせようとする人間、その過程のなかで、「ネキリ」がある。人間には敵わないと猿に思わせるプロセスである。猿は、ネキリによって、人間との新しい関係にはいる。
どうも、義母と我々夫婦の関係もそういうところがあるかもしれない。自分の家ではない。娘の嫁ぎ先の家に、自分が、保護されている。有り難いけれども、それでは済まぬ、という気分がある。
ことあるごとに、帰らんとアカンという。それも、挑戦的に。これは、娘たる妻にとってコタエル話しである。これだけやっているのに、今までやってきたのはなんだったのか。しかしながら、それは、いちいち、その都度、義母のホンネであっても、こちらは、ホンネとして、とらえてはならないことである。客観状況を判断して、当方のとるべき態度をとるべきである、として、行動してきた。
客観状況から、こちらがあるべき状況を判断し、自信をもって、遂行すべきことであって、義母が言うとおりにすることが、義母にとって、必ずしも良いとは思えないときには、自信をもって、こちらの信ずるままに、やるべきことをするのである。たとえ、それが、うまくいかなかったにしても、それは、致し方のないことであって、それは、やるべき者が、自信をもって、対処するより他にない。
赤の他人、第三者がどういおうと、そんなことは、関係ない。当事者たる、我々が、本人にとって、よかれと、思う方向を貫徹するほかないのである。
結果的に、義母は、頭のいい人である。こちらの真意を理解し、これは、勿論後になったら、言うことが、くつがえるかもしれないが、徐々に、妻の言い分を、受け入れ始めた。こんな有り難いことはないので、不足を言ったら、罰があたる、などと言い出した。よろしくお願いします。と。
さきのことなどを、考えたらいてもたってもいられない、とも、義母は、言っていたのだが、妻に先のことなど、考えても仕方がないといわれて、そんなことを言うけど、「考えるサあ」と大きな声で、反論していたのが、そうだね、考えても仕方がないのだよねえ、と変わってきた。要するに、受け入れ始めたのである。
思うように、動かない体、施設は絶対イヤだといっていた義母、その対策は、それをうけいれてくれる娘の嫁ぎ先であったということだ。そのなかで、親切に言われることを、ゴジャゴジャ言われるのはキライというのは、さすがに、自分でも、おかしいと思ったようである。
そこに、誇りであったり、服従するのを嫌うような、感じがある自分に対して一定の反省がみられる。当方としても、そこへの配慮はしているつもりであるが、より、真剣にその心理状況を、斟酌しなければならないと思う。
義母は、自分で「ネキリ」を実施したのかもしれない。それは、安定的なものなのか、どうかは、まだ解らない。しかし、そのおかげで、妻はすっかり元気になった。
どうも、義母と我々夫婦の関係もそういうところがあるかもしれない。自分の家ではない。娘の嫁ぎ先の家に、自分が、保護されている。有り難いけれども、それでは済まぬ、という気分がある。
ことあるごとに、帰らんとアカンという。それも、挑戦的に。これは、娘たる妻にとってコタエル話しである。これだけやっているのに、今までやってきたのはなんだったのか。しかしながら、それは、いちいち、その都度、義母のホンネであっても、こちらは、ホンネとして、とらえてはならないことである。客観状況を判断して、当方のとるべき態度をとるべきである、として、行動してきた。
客観状況から、こちらがあるべき状況を判断し、自信をもって、遂行すべきことであって、義母が言うとおりにすることが、義母にとって、必ずしも良いとは思えないときには、自信をもって、こちらの信ずるままに、やるべきことをするのである。たとえ、それが、うまくいかなかったにしても、それは、致し方のないことであって、それは、やるべき者が、自信をもって、対処するより他にない。
赤の他人、第三者がどういおうと、そんなことは、関係ない。当事者たる、我々が、本人にとって、よかれと、思う方向を貫徹するほかないのである。
結果的に、義母は、頭のいい人である。こちらの真意を理解し、これは、勿論後になったら、言うことが、くつがえるかもしれないが、徐々に、妻の言い分を、受け入れ始めた。こんな有り難いことはないので、不足を言ったら、罰があたる、などと言い出した。よろしくお願いします。と。
さきのことなどを、考えたらいてもたってもいられない、とも、義母は、言っていたのだが、妻に先のことなど、考えても仕方がないといわれて、そんなことを言うけど、「考えるサあ」と大きな声で、反論していたのが、そうだね、考えても仕方がないのだよねえ、と変わってきた。要するに、受け入れ始めたのである。
思うように、動かない体、施設は絶対イヤだといっていた義母、その対策は、それをうけいれてくれる娘の嫁ぎ先であったということだ。そのなかで、親切に言われることを、ゴジャゴジャ言われるのはキライというのは、さすがに、自分でも、おかしいと思ったようである。
そこに、誇りであったり、服従するのを嫌うような、感じがある自分に対して一定の反省がみられる。当方としても、そこへの配慮はしているつもりであるが、より、真剣にその心理状況を、斟酌しなければならないと思う。
義母は、自分で「ネキリ」を実施したのかもしれない。それは、安定的なものなのか、どうかは、まだ解らない。しかし、そのおかげで、妻はすっかり元気になった。