ジャンル 演劇
観覧日 20223年1月16日午後2時
会場 俳優座劇場
2021年に見たとき以上に、「炎の人」は三好十郎のゴッホなのだと強く思った。そして三好十郎の「炎の人」は、やはり文化座が演じるのがいいと、そう思わせた舞台だった。プログラムの解説を読むと、最初は民芸で滝沢修のゴッホで初演されたが、三好があえて佐佐木隆に頼み、文化座で再演されたというが、きっと佐佐木だったら、文化座だったら、自分の書いた戯曲をもっと骨太に、激しく情念がぶつかるゴッホにしてくれるのではという思いがあったのではないだろうか。秋田の田舎から東京に出てきて、社会と、そしてなにより表現する自分たちと闘ってきた佐佐木の文化座だったら、三好が描こうと思ったゴッホをかたちにしてくれるのではないか、そんな思いを託したのではないだろうか。佐佐木の友人で、満州から一緒に引き揚げてきた、元満映職員で作家の長谷川濬が、初演のこの舞台を見て、佐佐木が演出したこの芝居を骨太のゴッホをよくぞ描いたというようなことを日記に書いていたことを覚えている。三好や佐佐木と同じように、表現者として濬もまた、三好ゴッホに大いに共感していたはずだ、それは表現のためにすべて投げうっている自分の姿でもあったからだ。
藤原をゴッホとした、鵜山仁の「炎の人」は、そうして文化座がいままでつくってきた三好ゴッホの伝統をしっかりと受け継ぎ、見事な舞台をつくりあげた。この芝居は、文化座が守っていく、そんな気概さえ感じられる舞台となっている。
なにかテレビ番組(たぶん日曜美術館だったと思う)でゴッホがとりあげられ、ゴッホがさまざまな相剋のなかで、最後杉の絵が描くなかで、ある境地に達したみたいなつくりかたをしていたのを見たことがある。三好ゴッホは、最後までゴッホはそんな境地にまで達することなく、とにかく自分と闘いながら、最後まで表現するとはなにかを求めながら、描き続ける。それは表現者として、三好があるいは佐佐木が描こうとしたこと、それがふたりのゴッホだったのかもしれない。彼が描こうとしたのは、人間の本質、それをどう描くはわからないが、とにかくそれが描きたかった、その中で、弱い自分、優しい自分、だらしない自分と向かいあい、それと闘っていた、彼は決して狂ったのではない、相反する情念、思想に真摯に向かいあっていたのである。そうしたゴッホを文化座はつくりあげた。それがとてもよく伝わってきた。たとえ一枚も絵が売れなくても、そうして自分と向かい合い、人間の本質を表現しようとしたゴッホに対して、三好は小さな花束を送りたいと思ったのだろう。私が見たテレビ番組のように、ある境地に達するのではなく、分裂したまま耳を切ってしまったゴッホが、ステージの真ん中で、それでも描き続ける中、出演者が囲み、花束を送ろうと唱和したとき、涙が出そうになった。そのときは認められなくてもいい、でも自分と向かいあい描き続けよう、めざす表現を求めて、描き続けようとするゴッホの姿は、そのまま三好の、そして佐佐木の、姿に重ね合ってくる。
かなり難しい役だったと思うが、藤原は初演以上に深みのあるゴッホを演じきった。これはまぎれもなく、文化座の財産であることを思い知らせた「炎の人」であった。
2年前この芝居の初演を見たあと、コロナによる最初の緊急事態宣言となり、2回公演が中止、さらに翌年の公演でも途中で中止になったというが、そうした苦難を乗りこえただけあって、この芝居にはなにか苦難を切り拓いていく、そんなパワーが備わってようにも思える。ぜひ続けて、どんどん進化していく(たぶんこの芝居は演ずれば、演じていくほど彫りの深い作品になっていくはずだ)「炎の人」をやってもらいたい、それを見続けていきたいとも思っている。