ジャンル 演劇
観覧日 2020年2月25日午後7時開演
劇場 全労災ホール・スペース・ゼロ
3時間を超す長丁場の公演だったが、見応えのある舞台、時間が経つのをいつのまにか忘れていた。このところ時代と真っ正面に向いあった舞台をつくっている文化座が、あえて50年ぶりに三好十郎の「炎の人」を舞台にかけたのはなぜか?それは文化座の歴史もきちんと背負っていくということの意思表示なのだろう。ゴッホの生きるうえでの苦悩、画家として表現することの苦しみや悩み、ゴーギャンへの愛憎を、三好は硬質でごつごつとしたセリフに込めている。そこにゴッホへの共感というか、自分と重ね合わしながら、そこに表現者として生きることの難しさ、人々のために生きようとすることの過酷さが浮かびあがる。このセリフを、このところめきめき頭角をあらわしている藤原章寛が、自分のものとして身体ごと受けとめ、ゴッホを好演している。文化座をつくった佐々木が最後に演出したというこの作品には三好と佐々木の生きることへの渇望、芸術家として表現するもののほとばしるような魂がこもっている。その魂をいま、受けとめ、つなごうとしたこと、それが今回これを半世紀ぶりにとりあげた意義なのだろう。
ゴッホの表現することへの飽くなき情熱への共感で結ばれた三好と佐々木の魂を引き継いだこの芝居を見ながら、私は長谷川濬を思い浮かべていた。彼もきっと見たであろうこの芝居に、自分の生き方を重ねていたのではないかと思った。ひとから理解されないが、とにかく自分が表現したいことを愚直に書き続けた濬は、文化座が描いたゴッホにきっと自分を重ね合わしたはずだ。たぶん彼はこの芝居を見たときに、「青鴉」という日誌に感想を綴っていたはずだ。いまとなっては、この日誌は手離したので確かめることはできないのだが・・・
この芝居を見る数日前に、NHKの日曜美術館でもゴッホをとりあげているのを見た。彼の書いた手紙と絵を重ね合わせながら、ミレーの絵に最初影響を受けた彼が、晩年糸杉を描きつづけたことまでをたどり、この糸杉の絵のなかにかつて彼が描いた農夫の姿もあるところで、ゴッホの終着点がここにあったのだみたいな取り上げ方であったが、それはあくまでも表面的にゴッホの生き方や絵をなぞったものに思えてならない。そんな単純なことではなく、この芝居で描かれたように、ほんとうに苦しくて、息がつまるような、それでも描きたいという思いでゴッホは生きていたのだと思う。ラストでそんなゴッホに私たちは拍手を送りたいというところで、ちょっとうるうるしてしまった。
琴音という女優さんが目を引いた。初めて見る女優さんだが、舞台に現れただけで華があった。あのジプシーのような踊りで空気が変わった。酒場で働く女なのだが、けなげな無垢さももつ、そんな女性に見えた。
ゴッホの手紙をいつか読みたいと思っていたのだが、今度こそ読むことになるだろう。