デラシネ日誌

私の本業の仕事ぶりと、日々感じたことをデイリーで紹介します。
毎日に近いかたちで更新をしていくつもりです。

旅の終わり

2012-10-13 23:56:27 | 長谷川濬取材ノート
このところずっと忙しく、早くにしなければならなかったのだが、なかなか時間がとれなかった。やっと今日長谷川濬さんのお墓参りをして、この取材および執筆の長かった旅にピリオドを打つことができた。
11時20分に次男の寛さんと八王子駅の11番バスターミナルで待ち合わせをし、バスで八王子中央霊園に向かう。やっと秋らしいきれいな空と雲が望まれ、お天気も暑からず寒からずと絶好の天気となった。ここを訪れるのは二回目、あの時も寛さんと一緒に「木靴をはいて」という濬さんの詩集をつくったとき、そのご報告で訪れた。ちょっと肌寒かったが桜の花も咲き始めていた頃だった。
終点のバス停からゆっくり坂を登って霊園にたどりつく。寛さんがお墓をきれいして、花を飾り線香を立ててくれたところで、リックサックからおもむろに「満洲浪漫」を取り出して、墓前に飾り手を合わせた。いろいろな思いがこみあげてくる。ただとにかくこうして本の完成を報告できて感慨無量、ほんとうによかったと思う。寛と濬さん、濬さんと私と交代で記念写真を撮る。ふたりともめちゃめちゃいい顔していたと思う。寛さんがあの時濬さんのノートを見せてくれなければ、ここまでは辿り付けられなかった。やはり寛さんと一緒にご報告できたこと、それが一番うれしい。
およそ8年にわたる旅となった。長い旅だったが辛いと思うことはあまりなかった、実に楽しい旅だった。こうしてここでこの長谷川濬を追いかける旅が終わるのかと思うと少し寂しくもある。
八王子に戻り寛さんと遅い昼食をとった。そしてその席で、お借りしていたノートをどうするかについて寛さんから話があった。私が必要と思うもの以外はお返しすることにした。それは当然のことなのだが、最初の頃は自分で預かるということも考えていた。ただあくまでもプライバシーに関するもの、家族の人がもつのが当然のことだと思う。
机、引き出し、本棚はもう少しあとになってから片づけるようにしよう。
ただ取材の旅は今日で終わりだ。ほんとうに濬さん、寛さんありがとうございました。


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李香蘭

2007-02-12 11:35:33 | 長谷川濬取材ノート
テレビドラマ『李香蘭』
放映日 2007年2月11・12日 テレビ東京

テレビ東京がかなり力を入れてつくった4時間以上のドラマ。原作は日経新聞の私の履歴書で連載され、単行本にもなっている「李香蘭を生きて」。いま私が追いかけている長谷川濬とも接点があるので、もちろんこの自伝は読んでいる。ドラマを2夜続けてみるなんて珍しいのだが、満洲と上海が舞台で、しかも中国でオールロケしたというし、わりときちんと見た。一番の期待は、長谷川濬が出てくるかということだったのだが、満映関係者では根岸、内田ぐらいが顔を出しただけで、残念ながら長谷川は登場しなかった。当然といえば当然なのだろうが。やはりこういうテレビだと、甘粕、川島芳子、川喜多長政など有名人ばかりが登場するのはやむを得ないのだろう。
李香蘭というか山口淑子の人生は、まさに波瀾に次ぐ、波瀾、それだけをたどるので精一杯という感じがした。彼女のエピソードをなぞるだけに終わったような気がする。このドラマの中で、李香蘭を生きなければならなかった女性の人生のなかで、どんなことを言いたかったのか、それがとても希薄なような気がした。満洲で、中国大陸で中国人と日本人の間で生きることを余儀なくされた女性を、ただ描くだけでは、見るものに伝わるものがないような気がする。
主演の上戸彩は、がんばって演じていたと思うし、歌の場面もよくこなしていた。ただ全編中国ロケということがあったのかもしれないが、時代考証が甘いところも多々あった。日劇の七回りのシーンも、あれは日劇じゃないし、ラストシーンのリューバチカの父母の墓のシーンもロシア正教の墓じゃなかった。つくりが雑だったという感じは、否がめなかった。
エピソードだけでなく、きちんとしたメッセージをこめて、書かないと人の胸には届かない、それはいま自分が書こうとしている長谷川濬のノンフィクションを書くうえでの警句になった。その意味では見て良かったのかもしれない。


コメント (5)
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文化座「冬華(ふゆか)-演劇と青春-」

2006-12-29 00:24:08 | 長谷川濬取材ノート
我が悪友のひとり野毛の餃子屋のおやじ福田豊が、「新聞はいいよね、必要ないことも書いてあるから」と言っていたが、これは蓋し名言である。ネットの時代、必要な情報はパソコンのキーを叩けば、すぐに入手できる。ただ必要ないことのなかにもいろいろ情報はあるのである。
 文化座が、「冬華」という芝居を上演することを知ったのは、朝日新聞夕刊のマリオンのちいさな情報欄だった。敗戦間際満洲を巡業していた劇団が敗戦とともに満洲で足止めをくらう、終戦後の混乱のなか寒さと飢え、ソ連兵の掠奪がはびこる新京で、劇団は芝居を上演する、実話に基づいた話という解説を読んで、これは見なければならないだろうと即座に思った。何故ならこの上演には、長谷川濬も一肌脱いでいたからに他ならない。
川崎賢子は『彼等の昭和』の略年譜の一九四六年の項で「濬は、この春、巡業中敗戦となったため満映の社宅に滞在中だった劇団文化座を世話し、在留民団の後援で、吉野町の市公会堂にて、三好十郎作「彦六大いに笑ふ」公演を実現させる」と書いていた。
もしかしたらこの「冬華」という芝居の中で、長谷川濬に会えるかもしれないと思ったのである。当時八才だった長谷川濬の次男のHさんを誘い、六本木の俳優座にこの芝居を見にでかけた。Hさんにとっては辛い思い出しかないこの時代をテーマにした芝居を見ることは、過去の傷跡をほじくるようなもので、一緒に行ってもらえるかどうか、自信はなかったのだが、Hさんはすぐに同行を了解してくれた。
文化座は、バリバリの左翼劇団といっていいだろう。左翼劇団という言葉はもう死語なのかもしれないが、自分にとってはこのレパートリーではなかったら決して見ることがない劇団だと思う。同じような時代を背景にした井上ひさしの「紙屋町ホテル」、「志朝と円生」と比べたらやはり脚本の力は弱いのは否がめない。でもなんというのだろう、見ている方が恥ずかしくなるほど直球でぐいぐい押してくる、そこがこの劇団の持ち味なのだろうと思った。戦後終戦後の新京の辛い状況を描く場面が続くたびに、隣に座るHさんのことが気になってしかたがなかった。公演後「辛かったのではないですか」と思わず聞いてしまったのだが、Hさんはいつものように淡々と、「懐かしいですね」と答えておられたが、いろいろな思いが交錯したのではないかと思う。この時Hさんは、文化座が滞在していた社宅に住んでおり、同じ時代を共有していたはずなのだから。

さて私にとってこの芝居は、長谷川濬が出てくるかどうかが大事であったし、それを知るために見たようなものである。で、どうだったか?
「冬華」には、満映関係者が三人出てくる。敗戦後の新京で芝居をやりたいという無謀な劇団の希望をかなえる為に中国側と交渉するほか、いろいろ劇団の面倒を見る犬塚、ソ連側に追われる理事戸崎、そして照明など裏方をする元映画監督本村である。本村は内田吐夢、戸崎は理事長だった甘粕がモデルになっているのではないだろうか。問題は新京市公会堂を借りるため、また食糧などを手に入れるため奔走する犬塚のモデルなのだが、これが長谷川濬だという感じがした。これはHさんも同意見であった。
しかし文化座が、この犬塚のモデルとしていたのはどうも大塚有章のようだ。公演プログラムのなかで、座長の佐々木愛は、こんなことを書いている。
「満洲時代、苦楽を共にした内田吐夢先生、木村荘十二先生、森繁久弥氏、大塚有章氏、新京公会堂支配人だった土屋さん、(中略)この作品にも登場する沢山の方々の援助のもとに、文化座は満洲で生き延び、今日まで歩みつづけた。」
当時一歳半であった佐々木愛は、父や母と共に満洲に渡らず、国内に留まったという。
大塚有章は、戦後中国から帰国してから出した回想録『未完の旅路』の中で、こんなことを語っている。
「私が東北電影公司の日本人代表委員だったときのことは、殆ど忘れてしまっているのに、一つだけ頭に焼き付いて離れないことがある。それは満洲公演中に運悪く敗戦に遭遇して、日本に帰るまでの一年余りを長春に籠城しなければならなった文化座にまつわる物語である。文化座が満洲公演の最後を飾ったのは長春市(当時の新京)公会堂におけるマチネーであった。それは最後を飾るという言葉がピタリとするほど、公会堂は大入り満員だったし、数千の観衆は一座の好演に魅了させられたものだった。すでに戦争は末期の兆しを呈しており、文化座の公演を勝ちとるためには、旧満映が軍や政府方面に向かって諒解をつける必要があった。旧満映では応召で人が足らず、私が宣伝課長も兼務しているという状態だったので、門外漢の私も公演には多少の関係があったように記憶する。」
その後敗戦後も大塚と文化座の交流はあったようにこの回想録は書いているのだが、「冬華」の直接のテーマとなっている敗戦後一九四六年に上演された『彦六大いに笑ふ』については、大塚は何も触れていない。芝居では犬塚はロシア語も話せる設定になっていたことを考えると、やはりこの犬塚のモデルは長谷川濬だったのではないだろうか。
長谷川濬にとって、文化座との繋がりは忘れられないものとなった。一九四六年七月長谷川一家と文化座のメンバーは一緒に、日本に帰国したのである。そしてこの引き揚げの時に長谷川は次女の道代を失っている。
佐々木愛の母親である鈴木光枝は、この時のことをいまでもおぼえているという。
「炎天下の無蓋車で移動中に容態が急変、到着した錦州はどしゃぶりで、その雨のなか、ずぶぬれになって冷たくなった道代を抱いてたちつくす濬の姿を、いっしょに引き揚げた劇団文化座の鈴木光枝さんはいまでもおぼえているという」(川崎賢子『彼等の昭和』)
プログラムによると、佐々木愛の母である鈴木光枝は、今はベッドに身を横たえる身となっているという。いまとなっては長谷川濬とのつながりについて聞くにはもう遅いのかもしれない。
公演が終わってHさんと近くの居酒屋で軽く一杯やったというか、ご馳走になった。いま舞台で演じられたことは、Hさんにとっては実際に経験したことばかりだったにちがいない。あれだけまざまざと見せつけられて、嫌な記憶が甦ってきたのではないかということが、やはり気になっていたのだが、「敗戦のこととか、引き揚げのこととか、まったく覚えていないんですよ、あの時のことはほんとうに空白なのです」とぽつんと漏らしたその一言が、とても重く心の中に沈殿していった。

観覧日 二〇〇六年11月17日
会場  俳優座劇場

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デラシネの女 2

2006-03-12 16:23:01 | 長谷川濬取材ノート
次男のHさんとお会いする時もそうなのだが、とにかくお話が楽しい。文学のこと、絵のこと、映画のこと、自分も興味あることで話題が盛りだくさんで、ついつい時間が経つのを忘れてしまう。時計をみたらもう6時。それではと言うことでレストランを出た。帰り際に写真を一枚撮らせていただく。帰り道なじみのウコンの店に寄るというのでついていく。実は昨日と今日市場で安いウコンを5袋も買ってしまっていた。この店のウコンは値段が5倍ぐらい。きっとこっちのが本物なんだろう。店を出たところで別れる。
沖縄に来たのに、日本酒と蒲鉾じゃしょうがない、沖縄そばぐらい食べようと思い、居酒屋へ。国際通りに面したところで、観光客相手かなあと思ったら案の定。海ぶどうは新鮮で美味かったが、あとは「波の上」の方が圧倒的に美味しい。コンビニで泡盛の二合瓶を買って部屋に戻る。フロントから電話、Rさんからの預かりものがあるという。ウコンだった。一緒に入っていた手紙の字は、まさにずっと見慣れている濬さんの字そのままであった。
RさんもHさんも、きっと父である濬さんのことが大好きなのだ。今日のRさんの話しを聞いても、定職ももたない父をもち、相当貧乏もしていた。それを親のせいでというそぶりがまったくない、あたりまえのように受けとめ、みんな独立し自活していくばかりか、父と母のために援助を惜しまなかった。それは子供たちには当たり前のことだった。日記で知る長谷川濬とはまた別な長谷川濬が、子供たちのなかにいる。その落差に最初はとまどったものの、それは当たり前のことだと思うようになっていた。
そしてますます長谷川濬という存在が大きなものになってくるのを感じてきた。

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デラシネの女 1

2006-03-12 15:38:50 | 長谷川濬取材ノート
8時すぎには目が覚めたのだが、ベットからなかなか脱けられない。12時から濬さんの長女のRさんとの約束。本当はその前に首里城でも見ておこうかなんて思ったのだが、とてもそんな気力はない。11時すぎにホテルを出て、また国際通りを散策。しかしここは南国である、半袖でも寒くない。そういえば携帯に野毛の福田さんから着信の履歴。昨日の噂話で、くしゃみでもでたのだろうか?電話してみるといたって真面目な話しだった。12時に待ち合わせの三越のファミリーレストランへ。まだRさんはいらしておらず、腹が減っていたので先に食事をすませる。30分すぎても来ないので日にちを間違えたかと気になり、自宅に電話してみるが、出ない。と思ったらRさんが現れる。今年72歳になられるというが、お若いのにびっくり。濬さんが書いた日記にはよく登場してくのだが、だいたいこちらが予想していたような感じだった。沖縄に来られたのは、いまから7年前。リューマチに悩んでいたが、ハワイに行くと痛みがないので、南国に越そうか、ただ田舎はいやだ県庁所在地でないと、ということで那覇に引っ越してきたという。知り合いもなく、よく決断をと尋ねたら、私は長谷川の血が流れていますから、コスモポリタン、根無し草、ぜんぜん苦になりませんとのこと。なるほどである。今日はこちらから何かお聞きするというよりは、Rさんの思うままに濬さんのことを語ってもらえればと思っていた。圧倒されつづけた5時間半だった。
昨年一度お目にかかりたいのですがという手紙と、「虚業成れり」と、いまデラシネで書いている「彷徨える青鴉」をプリントアウトして送っておいた。この時すぐにハガキで返事がきて、「負け続けた男」ということには反撥を感じましたと、素直な感想を書いていただいた。これについてRさんは、じっくりと話しをしてくれた。これが今回の取材ではなによりの収穫だった。
「ひとりきりで机に向かい、日記を書くと、後悔やら怒りやらぶちまけてしまうし、確かに戦後の父の生活や私たち家族の生活は傍目から見れば、悲惨なものに見えるかもしれません。ただ一緒に生活していると、それだけではないのですよ。うまく言えませんが、家族で一緒にいると音楽のことやら、文学のこと、テレビを見ながら、ハメットの小説に出てくるセリフのことで話題にのぼるのですが、それはうちの場合ごく当たり前のことだったのです。なんて言うんでしょう。貧しいけど、豊かだったというか、だから負け続けた男というのは、身近にいる私たち家族にはあまりぴんと来ないのですよ」
「それよりまたどうして父なんですか、父の伝記なんて誰も興味がないんじゃないですか?神さんだったら別でしょうが」
この質問は、日記を貸してくれた次男のHさんも最初に言っていたことだった。いろいろその理由を説明しても、いやいやそんなと否定的である。それは謙遜とかではなく、本当に価値がないという感じでニベもないのである。最初の頃は身内なのに思っていたのだが、どうもこれは長谷川濬という人を父にもった子供たちの、ある意味での誇りなのではないかという気になってきた。「私たち家族が一緒にいた時間のなにものも変えられないもので、それだけでいい、それが大事であり、そしていまは自分たちのことで精一杯」、そう言っておられるような気がする。これが長谷川家の生き方なのかもしれない。
「ザッハリッヒ」というドイツ語があるが、事実に即してとでもいう意味だと思うのだが、ザッハリッヒに生きること、その中で自分たちが精一杯であれば、いいじゃないか、そんな生き方をしているように思えた。
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