書名『鯨鯢の鰓にかく ~商業捕鯨 再起への航跡~』
著者 山川徹 出版社 小学館 出版年 2024
タイトルでこれだけ難しい字が並ぶ本は珍しいのでは、「けいげいのあぎとにかく」と読み、鯨に飲まれそうになったけど、アゴのところでひっかかり助かったということで、絶体絶命の状況や、そこで命をかける人のことをいうとのこと。この言葉は、この書のある意味核になっている鯨博士大隅清治の言葉である。
著者がまえがきで書いているように、国際捕鯨委員会脱退、調査捕鯨から商業捕鯨に大きく舵を切ったいまの日本で、捕鯨問題が大きな問題としてとりあげられることはない、いまさら捕鯨かよということになるだろう。そんななか二度調査捕鯨船に乗り、さらに商業捕鯨船にも乗り取材を続けてきた著者が、捕鯨の問題をいまこそ、感情論抜きに冷静に見直し、もう一度振り返り、捕鯨の未来を考えるべきだと訴える力作ノンフィクションである。いままでこのテーマを追い続けてきたからこそ書けたもので、説得力をもった捕鯨の未来への提言ともなっている。著者の書は熱い語り口が特徴なのだが、ここではそれを抑えながら、静かに捕鯨の未来を見すえようとしている。そこに大隅の姿が重なり合う。捕鯨船に実際に乗った著者が、そこで鯨を捕る人たちと裸の付き合いをし、さらには調査捕鯨から商業捕鯨に切り替わるという時間差のなかで、かつて取材した捕鯨員たちの心の動きもとらえ丹念に描くことで、捕鯨する側の目線をしっかりと入れていることが大きな特徴となっている。そこで浮かび上がるのは、捕鯨の技術はいったん途絶えると、捕鯨が成り立たなくなるという事実である。捕鯨を続けるべきだというひとつの裏付けにもなっている。それ以上に説得力をもつことになったのは、大隅とじっくり付き合い、話を聞いたことで著者がしっかりと受けとめることができた大隅の生き方や考え方、クジラ博士としての苦悩などを描ききったことが大きい。
大隅の「南極海のクジラは、地球全体の財産、世界中の人にクジラ肉を食べろというわけではない、世界的に見れば、これから人口が増えていく。クジラに限らず南極海の生物資源を放っておいたら、世界的な食糧危機につながる恐れがある。海に頼れないなら陸へということになれば、いま以上に農業や牧畜が盛んになり、陸の環境が破壊されるおそれがある。それならいまあるクジラ資源を合理的に利用すればいい、クジラは全人類の福祉のために還元できる」
という主張はしっかりと受けとめるべきだろう。これが捕鯨の将来を考えるときに、一番大事な視点になるのではないだろうか。
クジラを食べている人がいなけれは、クジラを捕る意味がないのではないか、「石巻学」3号で牡鹿とクジラを特集したときにそんな疑問が常にあった。最近「クジラのレストラン」という映画が見たが、クジラ肉を美味しく食べる人たちやつくる人たちばかりを描いているのに、これじゃないと強く思った。その視点では捕鯨問題は解決できない。これだけ貧富の格差をひろがるなか、日本だけの問題でなく、食糧危機は訪れるし、いまも貧しい人たちは食べるのに困っている。そんな人たちにこのクジラという資源を利用することはとても大事になるはずだ。いまだけの問題ではなく、将来を見すえて、捕鯨を考えて行くことの大事さを本書は教えてくれる。調査捕鯨と商業捕鯨に変わったなかで、政府の援助はなく、商売として成り立たせないといけない、そのなかでこそ見えてきたものがあると著者は言う。「三二年にわたった調査捕鯨は新たな「知」を掘り起こし、「技」を維持する役割を果たした」という言葉は、調査捕鯨船だけでなく、商業捕鯨船にも乗ってクジラを捕る人たちを実際に見て、話を聞いた著者だけに説得力がある。
新たに建造された関鯨丸の初航海と、そしていままで捕られなかったナガスクジラの初漁という、日本の捕鯨が新たなフェーズに突入したいま、この書が出た意義は大きい。
最後に個人的エピソードをひとつ。
「石巻学」3号で私は大隅さんと対談をしているのだが、できあがった本を見た元捕鯨船員の父(この号には父の半生記を私が聞いた記事も出ている、父はこの記事をほんとうに喜んでくれて、ディサービスで通った施設には、この本がぼろほろになって残っていたと、ケアーマネージャが話してくれた。父の葬儀の時、そのことを思い出し、横浜から駆けつけた妻に頼んで、この本をもってきてもらい、柩のなかに入れた)が、この人と捕鯨船で酒を飲んだことがあるとつぶやいた。この話を大隅さんにすると、ほんとうです、お父さんのことを覚えていますとすぐに返事がきたことだ。大隅さんとは対談したあと少しだけお酒を飲んだが、私のサーカスの話にも興味をもって話を熱心に聞いてくれた。クジラ博士と少しだけだが、一緒の時をすごせたこと、つくづく良かったと思っている。