デラシネ日誌

私の本業の仕事ぶりと、日々感じたことをデイリーで紹介します。
毎日に近いかたちで更新をしていくつもりです。

さらば三原文 心から哀悼の意を4(三原の仕事を伝えたい)

2013-12-31 23:11:06 | 特別記事
三原の仕事を伝えたい
この時自分は2冊本を出すことが決まり、それでなくても大変なのに、石巻日日新聞に連載小説も書いていたということもあり、三原さんと編集の大野さんに丸投げ状態にあった。そんな中で凄いなと思ったことがある
ある日突然電話がかかってきて、「いままでまったく見逃していたんだけど、あの大鹿武さんの『幕末・明治のホテルと旅券』にあったのよ、ドラゴン一座の人たちのパスポートにスタンプが押されているのよ、それたぶんロシア語がと思うの、ぜったいそう、そしてもうひとつのはたぶんポーランドのもの。気づかなかったのよね」と一気にまくしたてた。手元に本がなく(これはコピーでもっていた)翌日図書館に行き、三原さんが言っていたヘージを見て、びっくりした。誰がこのパスポートに押されているはんこに気づくというのだ、気づくのがおかしいよ思えるぐらいまったく小さなものだったのである。感心するよりここに目が行く三原さんにあきれてしまった。借りて家でスキャンして拡大したり、ルーペで見ながらしているうちに、ロシア語でまちがいなくサンクトペテルブルグという地名が入ったスタンプであることがわかった。三原さんのサーカス学の手法を見せつけられた。この指摘のおかげで、私はドラゴン一座のメンバーがロシアに入国したという事実を拙著のなかで触れることができた。
最初に書いたようにこのアートタイムズができてから、三原さんとの連絡は途絶えてしまった。
こう書いていてもやはり悔しくてしかたがない。三原さんはこれからいままで蓄積してきたことを、ゆっくりとアウトプットするはずだった。リズリーのこと、そしてドラゴン一座のこと、横浜の興行師のこと、トミーと呼ばれた子供についてなどいくらでもネタはあったはずだ。あとは書くだけだったのにそれができないなんて、どうにもこうにも納得がいかないのだ。リズリーのことを書き、そしてドラゴン一座のことを書き、早竹虎吉のことを書くなかで、幕末に海を渡った日本人芸人たちの足跡の壮大な全貌が説き起こされるはずだった。これをできるのは三原さんだけである。それがまったく未完のままで終わるのである。それが悔しくてしかたがないのだ。
せめて自分ができることは、いままで三原さんが「アートタイムズ」に書いてくれたことや、他の雑誌で書いたものをまとめることではないかと思っている。これはぜひやらないといけない、サーカス学は三原文と一緒にあるものだった、それなのに三原はもういない、でも私はサーカス学をめざしていこうと思っている。そのときやはりそのときの第一頁は三原文がやったことを紹介することだ。彼女が残していったものが、サーカス学の基盤となっているのである。だからそれを伝え残していきたいのだ。私ができることはそれしかないのではないだろうか?
三原さん、そうだよね・・・


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さらば三原文、心から哀悼の意を 3(三原さんのサーカス学研究)

2013-12-31 23:06:52 | 特別記事
三原のサーカス学研究
こうして三原さんとのつきあいが始まるようになった。会って、すぐに決めたこと、それは三原さんに思う存分いま調べていることを書いてもらうために、自分が出している「アートタイムズ」でサーカス特集を組むことだった。翌年冬にその作業が始まった。「サーカス学誕生」という特集テーマが決まった。いままで自分がいろいろ頭のなかで描いていたサーカス学は、三原さんの研究によって非常に具体的なものになった。
三原さんの専門は英米演劇だった、それが幕末に海外で活躍した日本人サーカス芸人たちが欧米でどう受け取られていたのかというテーマにはまり、その記録を追いかけるなかで、たとえばマーク・トゥーエンと出会い、さらに幕末欧米からやって来た海千山千の外交官たちの行動を追うことになったり、あるいは当時の写真の分析をしてみたりと、とにかくさまざまな要素をかみ砕きながら、彼らの足跡を嗅ぎつけ、追いかけするなかで、演技や契約内容そしてその反応までをトータルに捉えていっている。それはどちらかといういままで何かを語るのに利用されていた、いわば刺身のつま的な対象であったサーカスを、メインにした新しい研究方法といえる。これこそサーカス学の骨格になるのではないか、いままで漠然と考えていたサーカス学の姿が見えてきたような気がした。
そして2010年7月「アートタイムズ」6号『サーカス学誕生』を世に出すことになった。このあとがきで自分はこう書いている。
「今号の特集を思いついたのは、三原さんの「日本人登場」を読んでからである。幕末のサーカスを切り口に縦横無尽に語りおこし、興行師、芸人、外交官などの生きざまを見事に蘇らせている。それも現地を実際に訪れ、徹底した調査に裏付けられたもの、これこそサーカス学の原点ではないか、ということで存分に三原さんに書いてもらいました」」
このとき三原さんに書きたいものをというリクエストしかしていなかったのだが、なんの躊躇なくリズリーにしましょうと答えてくれた。三原さんにはおそらく膨大な資料から自分なりに選り抜いたストックが、いくつもの棚に整理されてあったのだと思う。今回はリズリーで行くか、そんな感じではなかったかと思う。」
この特集はリズリーの珍しい図版がふんだんに入ったとても読みごたえある論考が集まった。
この号の裏表紙には恥ずかしながら、私の書棚の一部を撮った写真をつかっている。このとき、阿久根さんの本を真ん中に阿久根執筆の四冊をならべ、その隣に三原さんの本「日本人登場」を置き、そしてその隣に自分の「海を渡ったサーカス芸人」の本を置いた。三原さんは私の本と阿久根さんの本にはさまれて置かれたことをとても喜んでいた。
このあと三原さんとは2回会っている。一度目は大阪でボリショイサーカスを一緒に見に行った。サーカス見るのは久しぶりと言っていた三原さんが一番喜んでいたのは、ジギド。「馬のあしあとが聞こえるよね、いいよね」とご満悦だった。馬のあしあとを感じる感性はたいしたもんである。二度目は姫路でやっているサーカスをご主人と一緒に見に来てくれたときだった。このときはトゥイチーが桃太郎の演出でやっていたのだが、この桃太郎をえらく気に入ってくれたのが、うれしかった。企画者のひとりとしてちょっとは興行師面をすることができたということもあったかもしれない。
まさにサーカス学は誕生し、このあと考えていたのはサーカス雑誌を発行することだった。そのための助走にということで「サーカス学出帆」と題した特集を、「アートタイムズ」10号で組んだ。このときも三原さんを中心にした編集を考えた。


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さらば三原文、心から哀悼の意を 2(三原さんとの最初の出会い)

2013-12-31 23:02:41 | twitter
三原さんとの最初の出会い
三原さんとコンタクトが始まったのは、私が彼女の『日本人登場』を読んで、まさに衝撃を受け、大変な本を書く人間がいたもんだと、そのびっくりした気持をそのまま、デラシネ日誌に書いたあと、一週間後に三原さんからメールをもらったことによる。
http://yaplog.jp/deracine/archive/1504
確かここは評価してもらいたいと思ったところを、評価してもらってとても嬉しかったというメールだったと思う。あの感想は決して大げさでなく、どんなに褒めたたえてもたらないぐらいの凄い本だった。自分も長年海を渡ったサーカス芸人の足跡を追ってきたからこそよくわかる。三原さんのその追い方は、私のような行き当たりばったりではなく、学者らしく系統だったものであり、凄いのはそこから見つけた小さな事実をさらに追いかけて、またそこから事実をほじくりだすことにあった。劇場での公演記録、劇評、感想を集めていくなかで、三原さんの目には拍手喝采を浴びていた日本人芸人たちの姿がはっきりと捉えられていた。得意とするロシアだけでなく、アメリカやヨーロッパに渡った芸人たちの記録を集めていたが、とてもこの人に勝てるわけがないと思った。競い合ってもしかたがないというか、勝負にもならない、完全に脱帽状態だった。であれば教えを請おうと思いはじめた。
最初にメールをもらった2008年秋、秋は仕事で姫路に行くことになっていたので、桜井市に住む彼女と一度会いたいと思って連絡したところぜひ来てくださいということになった。
最寄り駅について電話をしてから彼女はやって来た。その時の第一声が「大島さん、興行師なんだよね、初めてだわ、興行師と会うのは」であった。その言葉にちょっと虚をつかれ、しばし言葉がでなかった。興行師と呼ばれるのは悪い気はしない、ただリズリーや神彰とか本間誠一とか、内野二朗のような立派な興行師ではないので、ちょっと面はゆかった。
それから歩いて5分ほどのところにある自宅に案内され、その日は手作りの夕飯までごちそうになり、いろいろ話をした。途中仕事の途中に家に戻ってきた旦那さんに「見て見て、大島さん、本物の興行師なんだよ」とまた言い出すのには苦笑するしかなかった。リズリーにだいぶ感化されていたのかもしれない。
三原さんはそのときはインターネットを通じてアメリカだけでなく、世界各地のサーカス研究家と繋がっていた、彼らがいつもたくさんの情報を三原さんに提供しているのは、このあと「アートタイムズ」6号のサーカス学誕生をつくるときによくわかった。ただここまで関係をつくるために、世界各地を渡り歩き、図書館で資料を探し、いろいろなツテを頼り、いろんな人と会って初めてできたことだと言っていた。半端じゃないお金をかけているのよとも言っていた。このとき居間で話を聞いていたのだが、ここにはまったく本など置かれていなかった。たまに何かを説明するときに、席を外し、手書きのカードを持ってきて、説明してくれたりしていた。彼女は大事な資料はコピーもするけど基本は手書きで書き写すと言っていた。書き写しているうちに、頭にいろんなことがインプットされるという。この結果はこのあといろいろな局面で見せつけられることになるのだが、何かを尋ねると、すぐに確か何年のどこどこの記録が残っているはずと一瞬で答えが返ってきた。これはこのような膨大な労力によって蓄積されたものの一部だったのである。
この日はこれから現場に行って、いろいろあるんでしょ、強い酒もたくさん飲まないといけないだろうから(興行師だから)と言って、胃に負担のかからない料理をつくってくれた。とても美味しかった。これだけ心配してくれているのだから、さすがにビールともいえなく、玄米ごはんと野菜の煮物や魚をもくもくと食べた。確かに胃に優しそうな献立だった。彼女がとても健康に気をつけているのもわかった。



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さらば三原文、心から哀悼の意を 1(三原文の死とサーカス学出帆)

2013-12-31 22:59:49 | 特別記事
三原文の死とサーカス学出帆!
今年私にとって最大の事件は、畏友三原文の突然の死であった。今年7月発行された「アートタイムズ」10号、「サーカス学出帆!」は三原文を中心とした、サーカス学確立のための第一歩だった。それが出たあと、突然三原はこの世を去ってしまった。知らせを受けてからいままで、この事実をどうしても受けいれることができないでいる。あと数時間で2013年は終わる。その前にどうしても三原文という凄いサーカス学者がいたことを、そして束の間ではあったが、交遊を結んでいたということを書き残したかった。

「アートタイムズ」の入稿を前に、どうしても一点図版が見当たらず、電話したのは確か5月ころではなかったかと思う。「開港記念館にジャパンタイムスがあるから、その増補版を見て、日付はわかるよね、その記事の確か右上かな、そこにあるはずだよ」とまるでその資料を前にしているように答えてくれた。相変わらず、この人凄いなと思ったものだ。
そのあと三原さんは「電話ありがとう、良かった声が聞けて」と言っていたのだが、それが私が聞いた三原さんの最後の言葉だった。その頃自分は「明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか」の入稿を控え、さらには仕事ではけが人が続けて出てしまい、忙しくしていたときだった。なんとなく腰が落ち着かない時だったので、ゆっくり話もできなかった。
入稿したあと、三原さんから「いい雑誌ができました!」というメールが届いたのは7月11日、自分はそのときも仕事で北海道に出かけるところだった。
「アートタイムズ」ができて、慌ただしく送っただけで、そのままになっていた。PDFでどんなものかは見ているので、あらためて感想もなかったのかもしれないが、何か便りがあってもよかったのにとは思った。そして拙著「明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか」ができて、これも贈ったのだが何の反応もなかった。ただ夏とかに長野に籠もったりすることもあったので、いずれ連絡が来るだろうと思っていた。それでもしばらく連絡はなかった。いつものmiharaという名前でメールが来たときは、ああやっと来たかとホットしたのだが、あけてびっくり、旦那さんからで三原さんが10月7日に亡くなったという知らせであった。
ショックだった。なんども「なんで」という言葉を口にしていた。なぜ亡くなったかも知りたかったし、お別れもしたく、旦那さんにお別れをしにそちらに行きたいのですがとメールしたのだが、いまは気持の整理がつかず、遠慮してもらいたいという返事が来た。やはりよほど急なことだったのだろう。
それにしても、なぜ死んでしまったのか、とても悔しい気持のままでいる。



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一年の締めくくり

2013-12-31 11:08:13 | お休み日記
走り納め。今年はよく走った。帰ってジョギングメモを見たら、年間トータル1916キロ。去年が1769キロだから150キロぐらい増えていることになった。
今年の大きなテーマである書斎の本棚の整理もいよいよ大詰め。だいぶ系統立てられたし、なによりスペースができたのがうれしい。
タキエさんの原稿をブラッシュ。これで完成かな。
このところ恒例になっている16号線沿いの天丼屋根津で天丼をテイクアウト、昼飯をたべる。
一年が終わるまえにどうしてもしなければならないこと、それは今年10月7日に亡くなった三原文への追悼文を書くこと。モーツァルトのレクイエムを聞きながら書く。ネットのニュースで大瀧永一が急死したことを知る。あとで細野晴臣のコメント「残念にもほどがある。彼の頭の中にあったポップスの宝庫はどうなるんでしょう」。これは三原さんが亡くなったときに思ったことだった。残念にもほどがあるという思いを書いて、ブログにアップ。
紅白をちらちらと見たが、綾瀬はるかが「花が咲く」を歌うとき泣きだしたのが、胸に響いた。
24時前に就寝。

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