三原の仕事を伝えたい
この時自分は2冊本を出すことが決まり、それでなくても大変なのに、石巻日日新聞に連載小説も書いていたということもあり、三原さんと編集の大野さんに丸投げ状態にあった。そんな中で凄いなと思ったことがある
ある日突然電話がかかってきて、「いままでまったく見逃していたんだけど、あの大鹿武さんの『幕末・明治のホテルと旅券』にあったのよ、ドラゴン一座の人たちのパスポートにスタンプが押されているのよ、それたぶんロシア語がと思うの、ぜったいそう、そしてもうひとつのはたぶんポーランドのもの。気づかなかったのよね」と一気にまくしたてた。手元に本がなく(これはコピーでもっていた)翌日図書館に行き、三原さんが言っていたヘージを見て、びっくりした。誰がこのパスポートに押されているはんこに気づくというのだ、気づくのがおかしいよ思えるぐらいまったく小さなものだったのである。感心するよりここに目が行く三原さんにあきれてしまった。借りて家でスキャンして拡大したり、ルーペで見ながらしているうちに、ロシア語でまちがいなくサンクトペテルブルグという地名が入ったスタンプであることがわかった。三原さんのサーカス学の手法を見せつけられた。この指摘のおかげで、私はドラゴン一座のメンバーがロシアに入国したという事実を拙著のなかで触れることができた。
最初に書いたようにこのアートタイムズができてから、三原さんとの連絡は途絶えてしまった。
こう書いていてもやはり悔しくてしかたがない。三原さんはこれからいままで蓄積してきたことを、ゆっくりとアウトプットするはずだった。リズリーのこと、そしてドラゴン一座のこと、横浜の興行師のこと、トミーと呼ばれた子供についてなどいくらでもネタはあったはずだ。あとは書くだけだったのにそれができないなんて、どうにもこうにも納得がいかないのだ。リズリーのことを書き、そしてドラゴン一座のことを書き、早竹虎吉のことを書くなかで、幕末に海を渡った日本人芸人たちの足跡の壮大な全貌が説き起こされるはずだった。これをできるのは三原さんだけである。それがまったく未完のままで終わるのである。それが悔しくてしかたがないのだ。
せめて自分ができることは、いままで三原さんが「アートタイムズ」に書いてくれたことや、他の雑誌で書いたものをまとめることではないかと思っている。これはぜひやらないといけない、サーカス学は三原文と一緒にあるものだった、それなのに三原はもういない、でも私はサーカス学をめざしていこうと思っている。そのときやはりそのときの第一頁は三原文がやったことを紹介することだ。彼女が残していったものが、サーカス学の基盤となっているのである。だからそれを伝え残していきたいのだ。私ができることはそれしかないのではないだろうか?
三原さん、そうだよね・・・
この時自分は2冊本を出すことが決まり、それでなくても大変なのに、石巻日日新聞に連載小説も書いていたということもあり、三原さんと編集の大野さんに丸投げ状態にあった。そんな中で凄いなと思ったことがある
ある日突然電話がかかってきて、「いままでまったく見逃していたんだけど、あの大鹿武さんの『幕末・明治のホテルと旅券』にあったのよ、ドラゴン一座の人たちのパスポートにスタンプが押されているのよ、それたぶんロシア語がと思うの、ぜったいそう、そしてもうひとつのはたぶんポーランドのもの。気づかなかったのよね」と一気にまくしたてた。手元に本がなく(これはコピーでもっていた)翌日図書館に行き、三原さんが言っていたヘージを見て、びっくりした。誰がこのパスポートに押されているはんこに気づくというのだ、気づくのがおかしいよ思えるぐらいまったく小さなものだったのである。感心するよりここに目が行く三原さんにあきれてしまった。借りて家でスキャンして拡大したり、ルーペで見ながらしているうちに、ロシア語でまちがいなくサンクトペテルブルグという地名が入ったスタンプであることがわかった。三原さんのサーカス学の手法を見せつけられた。この指摘のおかげで、私はドラゴン一座のメンバーがロシアに入国したという事実を拙著のなかで触れることができた。
最初に書いたようにこのアートタイムズができてから、三原さんとの連絡は途絶えてしまった。
こう書いていてもやはり悔しくてしかたがない。三原さんはこれからいままで蓄積してきたことを、ゆっくりとアウトプットするはずだった。リズリーのこと、そしてドラゴン一座のこと、横浜の興行師のこと、トミーと呼ばれた子供についてなどいくらでもネタはあったはずだ。あとは書くだけだったのにそれができないなんて、どうにもこうにも納得がいかないのだ。リズリーのことを書き、そしてドラゴン一座のことを書き、早竹虎吉のことを書くなかで、幕末に海を渡った日本人芸人たちの足跡の壮大な全貌が説き起こされるはずだった。これをできるのは三原さんだけである。それがまったく未完のままで終わるのである。それが悔しくてしかたがないのだ。
せめて自分ができることは、いままで三原さんが「アートタイムズ」に書いてくれたことや、他の雑誌で書いたものをまとめることではないかと思っている。これはぜひやらないといけない、サーカス学は三原文と一緒にあるものだった、それなのに三原はもういない、でも私はサーカス学をめざしていこうと思っている。そのときやはりそのときの第一頁は三原文がやったことを紹介することだ。彼女が残していったものが、サーカス学の基盤となっているのである。だからそれを伝え残していきたいのだ。私ができることはそれしかないのではないだろうか?
三原さん、そうだよね・・・