ダンポポの種

備忘録です

宙を舞う缶コーヒー

2008年02月12日 19時24分05秒 | それゆけスペース
きょうは、「ミ号」の車内で缶コーヒーを〝ひっくり返す〟という
悲惨な出来事がありました。
うううっ…、情けない。

状況は、こうです。

ある交差点で、私は「右折」しようとしていました。
右折レーンから交差点に入って停止し、対向の直進車が途切れるのを待っていました。

すると、心優しい対向車がいて、パッシングによって私に進路を譲ってくれたのです。

私は、すぐさまチェンジレバーを入れ直して発進し、
右手でハンドルを回しながら、同時に、左手で対向車に「お礼の挙手」をしました。

チェンジレバーを握っていた左手を、スッ…と挙げて「お礼」をしようとした、
まさに、そのとき!


チェンジレバーの真上付近にある「カップホルダー」に〝バンッ〟と左手が当たり、
ホルダーにのせていた缶コーヒーが、衝撃で宙に舞い上がりました。

『なぬーっ!!』

と思ったけれど、時すでにおそし。

宙を舞った缶コーヒーは、助手席の座面に落下し、さらに〝バウンド〟して、中身をまき散らしながら助手席側のドアに当たって跳ね返り、からんころ~んと、助手席とドアとの間に落っこちました。

『ぬおぉぉーっ!!』

悲惨です。


ひとまず交差点を抜け出て、安全な場所で停車して状況確認。

まだ、ふた口ぐらいしか飲んでいなかった缶コーヒーの中身は、空っぽ!
全部こぼれた、ということですね。

調べたところ、フロアマットの〝下〟に敷かれているマット(車両本体の床)が、こぼれたコーヒーを吸収したようです。
フロアマット自体は奇跡的に無傷だったので、パッと見には問題なしでした。

ふき取れる箇所は、全部拭き取りました。
助手席の座面にもこぼれたのですが、これも跡形なく拭えました。

問題は、ニオイですね。
コーヒーの甘いニオイが、車内を包んでいます。
しばらく取れそうにないか。

帰りにホームセンターに立ち寄って、芳香剤を買っておきました。
さて、芳香剤が勝つか、コーヒーの残り香が勝つか…。



これぞ雪景色②

2008年02月10日 01時37分48秒 | うちの近所
2月9日の積雪の記録(続き)です。


↑S華台付近。



↑雪景色のなかの「私のしごと館」。(向こうに見えている建物です)



↑がんばる近鉄。執念の定刻運行!?
 近鉄電車はいつも通りに動いていました。
 クルマから写したので、中途半端な構図ですが。



↑JR同志社前駅の前です。
 大学から坂道(たなべ坂)を下ってきたところの交差点。
 坂を下ってきて、何気なくブレーキを踏んだら、ABSが作動!
 足の裏に伝わる、久しぶりの感触~!
 スタッドレスといっても、要注意です。 



↑いつもの府道22号は大渋滞で、さっぱり進みません。
 こんなとき、山側を通っている府道71号が〝抜け道〟になります(します)。
 もちろん、遠回りですが…。
 ただし、ひとつ峠を越える山道なので、ノーマルタイヤでは無理っ!
 画面中央、枝が雪の重みで垂れ下がっているのが分かりますか?
 こういうのが随所にあって、避けながら走らなければなりません。
 雪道練習には、もってこいだ!
 わだちが出来ていることから、勝手を知ったクルマは抜け道利用しているようです。



↑花空間けいはんな(フラワーセンター)の前。
 人影がありませんでした。



↑K奈道路の通行止め案内。
 ユキ通行止め。レアな一枚かもしれません。


雪景色の画像は、以上です。



これぞ雪景色!

2008年02月09日 23時54分36秒 | うちの近所
きょうは、朝から雪が降り始め、みるみるうちに積もりました。
うちの近所も、真っ白な世界に!
ここまで白くなったのは、何年ぶりだろう。

こんなときこそ、スタッドレス装着の「ウ号」の出番!
『よっ、待ってました!』という感じです。

ウ号で出動し、2時間ばかりうちの近所を動き回って雪景色を写してきました。

きょうの投稿は、その紹介の「前編」ということで…。



↑真っ白になった、S華町の田園。



↑町役場の付近。



↑祝園駅前の交差点。



↑祝園駅前広場。
 バスは、急遽チェーンをまいて稼動していました。



↑祝園駅にてJR電車。
 車両故障だとかで、この電車はストップしたままでした。
 よく見ると、車内灯が消えていますね。



新しいルート

2008年02月08日 23時29分12秒 | クルマ
きょうは、京都ヘッドからの帰り道に、
阪神高速・京都線」を経由してみました。
ルートは、次の通りです。

京都ヘッド→東大路通→九条通→油小路通→上鳥羽入り口→(阪高・第二京阪)→
→八幡東IC→府道22号→田辺北IC→(K奈道路)→S華町

夕方の時間帯でしたが、
京都ヘッドからウチに帰り着くまでの所要時間は「55分」でした。
一応、〝1時間切り〟っていうことで。
決して、無茶な走り方はしていません)


ちなみに…、

京都ヘッド→東大路通→九条通→九条河原町→国道24号→大久保バイパス→
→(K奈道路)→S華町

というのが、日頃、私が〝愛用〟しているルートです。

基本的には、夕方でも、このルートは「約1時間」で帰り着けます。
ただ…、夕方の24号線(南行)は、渋滞で〝全く当てにならない〟ことがあります。
大久保バイパスに入ってしまえば、あとは所要時間が読めるのですが、そこへ至るまでの24号線が、〝難所〟級の危うさを秘めているのです。
(ひどいときは、京都ヘッドから御香宮まで1時間かかることがある)


きょう、実際に走ってみて、
混雑する夕方に、より確実に「1時間ほど」で帰り着くルートとしては、
『阪神高速&第二京阪』のほうが使えるかなと思います。
24号線経由に比べて、距離的には「遠回り」になると思うのですが、
夕方であっても所要時間は〝読める〟気がします。

ただし、このルートだと、
『通行料金をたくさん支払わなければならぬ』
のではありますが…。
だから、頻繁には使えないかな。
〝伝家の宝刀〟みたいな扱い方になりそう。

↑通行料金は全部でいくらですか?

↑それは内緒…。

↑なんでやねん。



一休さん

2008年02月07日 23時57分20秒 | うちの近所
いまや、JRに乗るときは当然のこと、
近鉄電車や奈良交通に乗るときも「ICOCA」を使っている私です。
結局、ピタパのカードは作っていません。
毎日決まって電車に乗るわけではないので、イコカで事足りていますね。

その「ICOCA」の残額が〝百数十円〟になっていたので、
きょうはアルプラに行ったついでに京田辺駅へ立ち寄り、
金額チャージをしてきました。


えっ…?

「京田辺駅まで行かないことには、チャージできないんだろ」って…?


ハハハ…。
な、なにを根拠にそんな…


デジカメを持っていたので、京田辺駅を写してきました。(←話をそらす奴)



↑駅の西側から写してみました。
 昔の駅舎からは想像できない、立派な姿です。

 『あれれっ…?』
 これを写している時に、一休さん銅像の様子がいつもと違うことに気づきました。





↑銅像に近づいてみます。
 
 ほら…、一休さん、帽子をかぶっている。





↑正面に回り込んでみた。
 
 暖かそうな帽子です。
 ちょいと目深にかぶってみたりして、おしゃれでさえあります。
 誰かが、かぶらせてあげたのでしょう。
 『かさじぞう』の話を思い出しますね。

 「きびしい寒さも、これで乗り切れそうじゃ」
 とでもおっしゃいそうな、一休さん。



相合傘の落書き

2008年02月06日 22時01分01秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出については、
「鉄道」との絡みがないエピソードも、いくつかある。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

昭和56年(1981年)3月末、わが家は、広島県から兵庫県西宮市へ引越しした。
ちょうど私が小学3年生に進級する春のことだった。

せっかくの春休みは、引越しの片付けに追われるうちに慌しく過ぎ去り、4月の新学期を迎えると、私は地元のT小学校へ通うことになった。
T小学校は、各学年とも1組から5組まであって、私は3年5組に入ることになった。担任は、学年主任を務める女の先生だった。恐い先生という印象ではなかったけれど、締めるところはきっちり締める、しっかりした先生だった。


T小に通い始めた私が、まず閉口させられたものがあった。

それは、「相合傘の落書き」の流行だった。

3年5組の教室にも、新学期最初からこの習慣は入り込んでいて、いつも冷やかし合いが絶えなかった。休み時間に男子と女子が〝一対一〟でちょっとお喋りしただけで、間違いなくそのふたりはターゲットにされた。

『あのふたりは、アツイ…

と、周囲は言い、黒板に相合傘の落書きをして冷やかすのだった。

何と言うか…、研ぎ澄まされた敏感さだった。

ひょっとすると、これは、西宮に限らず関西の小学校では当たり前の習慣なのかもしれないが、2年生まで在籍した広島の小学校ではそういう空気は全く無かったので、最初、私は大いに戸惑った。

転校生ということで、新学期当初の私は〝お客さん扱い〟によってターゲットからそもそも外されていたようだが、日が経って、お互いの気心が知れるにつれて、容赦なく落書き合戦に組み込まれるようになった。見方を変えれば、クラスの一員として受け入れてもらえた証しでもあっただろう。
その後、学年が上がるにつれて、この習慣は自然消滅していった。そういう〝遊び〟をしなくなった。「オトナになった」とでも言えば良いのだろうか。3年生~4年生の時期に遭遇した習慣だった。

転校生の立場からすると面食らう習慣だったけれども、クラスメートの名前と性格を覚えるのには役立った気がする。



ミ号の点検

2008年02月05日 18時52分29秒 | それゆけスペース
きょうは「ミ号」の12ヶ月点検だったので、三菱の販売店まで行ってきました。
納車は昨年3月だったのですが、クルマ自体の登録月は2月なのです。
乗り始めてから実質11ヶ月での〝1年点検〟ということになります。
走行は「145億mm」ってところです。(←計算合ってるか?)

毎日のように動かしているので、ミ号は快調です。
冷え込みの厳しい朝晩も、エンジンは一発始動!
別に不具合は感じていないので、点検に際して私からの申告事項は無し。

「あっ…、ワイパーのゴムだけ、取り替えてもらえますか?」

私からお願いしたのは、それだけです。


実際、点検結果も「異常なし」でした。
まだ1年ですから。

点検を終えてピットから出てきたミ号は、なんと、ぴかぴか!!
洗車もしてくれたみたいです。申し訳ないな。
最近、雨とか雪の日が多いので、結構〝泥んこ〟になっていました。
車内のフロアマットもスッキリした印象で、掃除機までかけてくれたようです。

できれば、ミ号の就役1周年を記念して「遠出」をしてみたいです。



ダイ改

2008年02月04日 22時49分12秒 | 鉄 道
近鉄電車のHPに、「春のダイヤ改正」についての情報が出ました。
改正日は3月17日(月)とのこと。

すでに、『近鉄時刻表2008年号』が2月中旬に発売予定-という予告も出ています。
例年は、ダイヤ改正の直前ぎりぎりにこういう情報が出てくるのですが、
今年の近鉄電車はなんだか準備が早いです。



近鉄電車ホームページ
↑「お知らせ」の欄から、「ダイヤ改正についてのお知らせ」を選んでね。



夕方~夜にかけての時間帯に、奈良線の特急列車が何本か増発されるようです。
通勤(帰宅)客の特急利用を見込んだな…。

京都線についての情報が書かれていないところを見ると、
こちらは「変動なし」ということか。

京都23時26分発の急行(奈良ゆき)があるのですが、
この電車は、大久保でも新田辺でも、各停に接続しないのです。
新祝園で各停に接続するようです。
これ、なんとかならんものかな…と思います。
各停に接続しないので、私の場合は結局、あとの急行(京都発23時41分)で帰ってくるのと同じ結果になるというわけで。

以前は、この急行に接続する新田辺始発の各停が走っていたのですが、
いつの頃にか消えてしまった…。
2両編成でもいいから、復活させてほしいです。

ただ、私は毎日乗るわけではないですが。(そりゃだめだ)



一瞬の銀世界?

2008年02月03日 19時18分56秒 | 日記・雑記


今朝は、うちの近所も薄っすらと雪化粧していました。
きのうの晩は「雨」だったので、夜中のうちに雪に変わったのでしょう。
朝から昼前にかけては再び雨になったので雪もとけ、
お昼ごろには「いつもの風景」に戻っていました。

思い返せば、昨年(一年前)の冬は暖かくて、
うちの近所では、きょうみたいな雪化粧も見られなかったものです。

この冬は、〝冬らしい〟寒さだと感じます。

画像は特にありませんが、
きょうは〝積雪記念〟の投稿ということで…。



旧スナックカー (昭和42年)

2008年02月01日 17時08分15秒 | 近鉄特急
『旧スナックカー』

車両系式:12000系
登場初年:昭和42年(1967年)
全廃車年:平成12年(2000年)
製造両数:20両(2連×10本)


 昭和39年に東海道新幹線が開業したことで、大阪~名古屋間の旅客流動にも大きな変化が生じました。この区間で圧倒的なシェアを握ってきた近鉄の「名阪特急」は、新幹線にごっそりと客を奪われてしまったそうです。これ以降、昭和40年代全体を通して、名阪特急が〝冬の時代〟を送ったことは、近鉄特急の歴史の中で必ず語られる部分です。

 名阪特急の凋落傾向に歯止めをかけようと、近鉄は、昭和42年(1967年)に12000系『スナックカー』を登場させました。スピードでは到底敵わない新幹線に、充実した車内設備で対抗しようという戦略から生まれた特急車両です。

 12000系は新製車両で、2両編成×10編成(計20両)が造られました。
 主な用途を名阪特急に絞り、「新幹線に対抗する」というポリシーを持って生まれた系式なので、それまでの近鉄特急の車両と比べて〝一歩進んだ〟内容になったのが特徴です。
 客室座席は回転クロスシートで、リクライニング式が採用されました。当時、新幹線の普通車は転換クロスシートでしたから、リクライニング・シートの採用は思い切った決断だったのかもしれません。さらに、客室の一角には「スナックコーナー」と呼ばれる小さなビュフェ(軽食コーナー)が設置されました。車体外観では、先頭車の正面デザインが従来のエースカー形から一新され、貫通幌(ホロ)にカバーが付けられたことでスッキリとした顔立ちになったことが特徴です。二階建て構造は採用されず、すべて普通床の車両で構成されました。
 客室設備を充実させることによって、新幹線に流れた利用客を少しでも取り返したい、という近鉄の願いが込められた12000系車両でしたが、何よりもスピードがもてはやされた時代だったか、結局、新幹線に流れてしまった乗客を呼び戻すのは難しかったようです。

 2両編成を1単位としたのは、利用状況に応じた増結を想定したものだったのでしょうが、結果的には2両編成のまま(増結なし)で運行されることが多かったようです。私が子供の頃に見た「電車の本」に載っていた近鉄特急(名阪特急)の写真も、2両編成の短い列車(つまり12000系)ばかりだったと記憶しています。
 
 12000系の特徴だった「スナックコーナー」(ビュフェ)は、個性的なメニューも相俟って乗客に親しまれたようですが、採算面では難があったのか長続きせず、その後に営業休止となって、後年の車体更新工事の際にはスナックコーナーそのものが撤去されるという寂しい結末となりました。

 「スナックコーナー」を装備したのは12000系が最初でしたが、続いて登場した12200系や18400系(後述)にも同様の軽食コーナーが装備されました。これらの系式は、スナックコーナーにちなんで『スナックカー』という愛称名で呼ばれました。系式ごとに区別する意味では、12000系のことは『旧スナックカー』と呼ぶのが一般的です。

 必死の対抗策もむなしく、東海道新幹線の前になす術が無くなった名阪特急でしたが、昭和50年代に入ってから国鉄の運賃・料金値上げが繰り返されたことで、状況が変わってゆきました。どんどん拡大する「国鉄と近鉄の〝金額差〟」を背景に、安くて快適な近鉄特急が乗客に見直され、以後、名阪特急の利用状況は〝奇跡の回復〟を果たすことになります。
 名阪特急の「苦難の時期」を耐えて走り続けた12000系は、その復活を見届けて名阪ノンストップ運用から離脱、後年は伊勢方面への運用にも活躍の場を広げ、平成12年(2000年)までに全車両が引退しました。