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ダンポポの種

備忘録です

旧スナックカー (昭和42年)

2008年02月01日 17時08分15秒 | 近鉄特急
『旧スナックカー』

車両系式:12000系
登場初年:昭和42年(1967年)
全廃車年:平成12年(2000年)
製造両数:20両(2連×10本)


 昭和39年に東海道新幹線が開業したことで、大阪~名古屋間の旅客流動にも大きな変化が生じました。この区間で圧倒的なシェアを握ってきた近鉄の「名阪特急」は、新幹線にごっそりと客を奪われてしまったそうです。これ以降、昭和40年代全体を通して、名阪特急が〝冬の時代〟を送ったことは、近鉄特急の歴史の中で必ず語られる部分です。

 名阪特急の凋落傾向に歯止めをかけようと、近鉄は、昭和42年(1967年)に12000系『スナックカー』を登場させました。スピードでは到底敵わない新幹線に、充実した車内設備で対抗しようという戦略から生まれた特急車両です。

 12000系は新製車両で、2両編成×10編成(計20両)が造られました。
 主な用途を名阪特急に絞り、「新幹線に対抗する」というポリシーを持って生まれた系式なので、それまでの近鉄特急の車両と比べて〝一歩進んだ〟内容になったのが特徴です。
 客室座席は回転クロスシートで、リクライニング式が採用されました。当時、新幹線の普通車は転換クロスシートでしたから、リクライニング・シートの採用は思い切った決断だったのかもしれません。さらに、客室の一角には「スナックコーナー」と呼ばれる小さなビュフェ(軽食コーナー)が設置されました。車体外観では、先頭車の正面デザインが従来のエースカー形から一新され、貫通幌(ホロ)にカバーが付けられたことでスッキリとした顔立ちになったことが特徴です。二階建て構造は採用されず、すべて普通床の車両で構成されました。
 客室設備を充実させることによって、新幹線に流れた利用客を少しでも取り返したい、という近鉄の願いが込められた12000系車両でしたが、何よりもスピードがもてはやされた時代だったか、結局、新幹線に流れてしまった乗客を呼び戻すのは難しかったようです。

 2両編成を1単位としたのは、利用状況に応じた増結を想定したものだったのでしょうが、結果的には2両編成のまま(増結なし)で運行されることが多かったようです。私が子供の頃に見た「電車の本」に載っていた近鉄特急(名阪特急)の写真も、2両編成の短い列車(つまり12000系)ばかりだったと記憶しています。
 
 12000系の特徴だった「スナックコーナー」(ビュフェ)は、個性的なメニューも相俟って乗客に親しまれたようですが、採算面では難があったのか長続きせず、その後に営業休止となって、後年の車体更新工事の際にはスナックコーナーそのものが撤去されるという寂しい結末となりました。

 「スナックコーナー」を装備したのは12000系が最初でしたが、続いて登場した12200系や18400系(後述)にも同様の軽食コーナーが装備されました。これらの系式は、スナックコーナーにちなんで『スナックカー』という愛称名で呼ばれました。系式ごとに区別する意味では、12000系のことは『旧スナックカー』と呼ぶのが一般的です。

 必死の対抗策もむなしく、東海道新幹線の前になす術が無くなった名阪特急でしたが、昭和50年代に入ってから国鉄の運賃・料金値上げが繰り返されたことで、状況が変わってゆきました。どんどん拡大する「国鉄と近鉄の〝金額差〟」を背景に、安くて快適な近鉄特急が乗客に見直され、以後、名阪特急の利用状況は〝奇跡の回復〟を果たすことになります。
 名阪特急の「苦難の時期」を耐えて走り続けた12000系は、その復活を見届けて名阪ノンストップ運用から離脱、後年は伊勢方面への運用にも活躍の場を広げ、平成12年(2000年)までに全車両が引退しました。



18200系 (昭和41年)

2007年12月06日 19時13分29秒 | 近鉄特急
車両系式:18200系
登場初年:昭和41年(1966年)
特急引退年:平成元年(1989年)→特急用途を外れ、団体車両「あおぞらⅡ」に転用。
全廃車年:平成18年(2006年)
製造両数:10両(2連×5本)
※昭和42年「ブルーリボン賞」受賞車両(近鉄第3号)


 東海道新幹線の開業にあわせて誕生した「近鉄京都線の特急」は、当初、一般型車両を改造して出来た〝異端の特急車〟680系(昭和39年。先述)によって運行が始まりました。1年後には18000系(昭和40年。先述)が戦列に加わりましたが、この系式も、廃車流用品を盛り込んで造られた〝変わり種〟車両でした。
「京都線の特急」の使命であり戦略でもある〝新幹線接続〟という大きな役割を持ちながら、運行開始当初のそれは、旧型車の寄せ集め的なやりくりの中から歩みを始めたのでした。

 そのような〝序章〟を踏まえたうえで、昭和41年(1966年)に、京都線の特急車としては初の新製車両となる「18200系」が登場しました。2両編成×5編成(計10両)がお目見えし、京都線特急の近代化が図られたのです。


 18200系は、当時、架線電圧と車両限界の違いから直通運転が不可能だった、

「京都・橿原線から大阪線への乗り入れ」(京都~伊勢間の直通運転)

を実現させるべく製造された車両です。

 車体は、車両限界が小さかった京都線に寸法を合わせつつ大阪線でも使用できる構造とし、架線電圧についても、京都線(600ボルト)・大阪線(1500ボルト)の両方に対応できる「複電圧車両」となったことが特筆できます。また、モーター出力も、大阪線の連続勾配区間を走破できるパワーが備えられました。
 異なる車両限界、異なる架線電圧、を克服した意欲作として評価されたのか、18200系は、昭和42年に近鉄電車では3度目となる「ブルーリボン賞」に輝きました。優秀な車両です。

 18200系の登場によって、京都駅発着の特急列車は運転区間が拡大し、京都~宇治山田間(当時)の直通運転が可能になりました。現在は賢島まで走っている〝京伊特急〟の始まりです。

 18200系は新製車両として登場しましたが、車体幅が抑えられたこともあって寸法的に「回転クロスシート」の装備が難しく、客室座席には「転換クロスシート」が採用されました。
 その後、近鉄特急の装備は「リクライニング式・回転クロスシート」が主流に移ってゆきますが、18200系はリクライニングシートへの取り替えを受けることもなく、最後まで転換クロスシートのままでした。

 登場から二十数年を経た平成元年より特急運用を外れ、改造を受けたのち、団体専用車「あおぞらⅡ」として〝第二の人生〟を歩みました。ちょうど、20100系「あおぞら」号が引退期を迎えていた頃で、後継の団体専用車両として18200系が転用された格好です。
 特急運用で活躍していた頃は、連日あたり前のように京都線を走っていた18200系ですが、定期運用がない「あおぞらⅡ」になってからは姿を見せる機会が減り、京都線でも時折目にする程度でした。

  ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 私は、「あおぞらⅡ」に乗ったことはありませんが、特急運用時代の18200系には何度か乗ったことがあります。ちょうど、昭和60年から平成元年にかけての時期です。今から思えば、18200系が特急運用で活躍した最後の時期ということになります。
 ブルーリボン賞に輝いた車両とはいえ、同じ特急料金を支払って乗るのにリクライニングシートではなくて転換クロスシートというのは、なんだか損をした気分になったものです。
『車内の雰囲気も…、6300系(阪急)のほうが上品ではないか?』と、勝手なことを思ったりもして。

 30000系や12600系(後述)も発着していた京都駅のホームに、18200系が入ってくるのを見ると、正直、『こいつはボロだな…』と思いました。
 18200系が単独で任務に就く「2両編成の特急」も走っていた頃でした。
 それがまた〝賢島行き〟に充てられている日があったりして…。
『こいつが、2両で賢島まで走る気かー!』って。

今となっては、懐かしい記憶です。



16000系 (昭和40年)

2007年11月07日 22時36分40秒 | 近鉄特急
車両系式:16000系
登場年:昭和40年(1965年)
製造両数:20両(2連×8本,4連×1本)


 680系による京都線・橿原線特急が誕生した(昭和39年)のに続いて、昭和40年には南大阪線・吉野線にも特急(座席指定制)が設定されました。大阪阿部野橋から橿原神宮前を経て吉野へと結ぶ特急の始まりです。
 このときに登場したのが16000系特急車両です。
 狭軌(線路の幅が狭い)の南大阪線・吉野線に対応する寸法で造られた車両なので、京都線や橿原線や大阪線(いずれも標準軌。狭軌に対して広軌ともいう)には乗り入れができません。しかし、寸法の違いを除けば、大阪線系統の11400系(新エースカー)に準じた構造でした。
 
 16000系は昭和40年のデビュー以後、昭和52年まで、少しずつ増備が続けられ、最終的に全部で20両造られました。
 用途が「南大阪・吉野特急」に限定されるので〝大所帯〟の系式ではありませんが、10年以上にわたって同一系式が増備され続けたのは、近鉄特急の歴史のなかでも珍しい例です。登場した時期によって正面窓や台車の形状に少しずつ〝違い〟があったようですが、ほかに大きな違いはなく、現在では当時の近鉄特急の香りを伝える最古参特急車となっています。
 
 現在すでに、初期に製造された車両からは引退廃車も生じているほか、一部の編成は静岡県の大井川鉄道へ移籍するなど、動きが出ています。そのぶん、近鉄の本線上を走る16000系が減ったことになりますが、すでに後継の新型系式も登場済みで、「南大阪・吉野特急」の運行は絶えることなく守られています。


 以前このブログでも紹介しましたが、まだ最近に私は久しぶりに吉野線に乗り、この16000系にも乗ってきました。
 外観の見た目は〝昔のまま〟かなと思いましたが、内装は大幅にリニューアルされていて、古さを感じさせません。まだまだ使えそうな車両です。

 私が初めて「南大阪・吉野特急」に乗ったのは中学生時代、昭和61年(1986年)12月のことでした。
 阿部野橋から橿原神宮前まで特急に乗り、そこで準急に乗り換えて吉野まで行き、折り返して吉野から橿原神宮前まで再び特急に乗って帰ってきたものです。
 このときの特急車も16000系でした。座席は回転クロスシートながら、リクライニング式ではなかったのを覚えています。また、前の座席の背もたれ(背面)に折りたたみ型のテーブルがくっ付いていて、古風な感じでした。
 のちに知ったことですが、10100系(新ビスタカー)で使われていた座席が16000系に流用された例もあったようなので、或いはそれに当たったのかもしれないな…と思っています。



京都線を走った特急 (昭和39年・40年)

2007年10月04日 21時15分27秒 | 近鉄特急
『京都線を走った特急』

車両系式:680系
登場した年:昭和39年(1964年)※種車は昭和29~32年製。
引退した年:昭和49年(1974年)※一般車に格下げ。
両数:7両(2連×2本,3連×1本)

車両系式:18000系
登場初年:昭和40年(1965年)
全廃車年:昭和57年(1982年)
製造両数:4両(2連×2本)


 奈良電(ならでん)こと奈良電気鉄道が近畿日本鉄道に合併されたのは、昭和38年(1963年)10月のことでした。東海道新幹線(東京~新大阪間)が開業するちょうど1年前のことで、京都~西大寺間が「近鉄京都線」になったのはこのときからです。
 近鉄が奈良電合併に意欲を見せた背景には、京都進出による自社路線網の拡大化という狙いはもちろんのこと、一方では、奈良電と近い関係にあった「京阪電気鉄道」がこれを介して〝奈良〟へ進出してくるのを阻止する意味もあった、とも言われます。

 合併から1年が経過した昭和39年(1964年)10月1日。
 東海道新幹線が開業したのに合わせて、近鉄は、京都~橿原神宮前間に「特急」を新しく設定しました。京都駅で新幹線と接続を図り、旅客を近鉄沿線(大和路・飛鳥方面)へ誘致しようという狙いだったようです。今日も走り続ける『京都・橿原特急』の歴史は、ここからスタートしました。
 ただし、当時の京都線や橿原線は、架線電圧が600ボルトと低く、また、車両限界(建築限界)の制約もあったため、大阪線などで活躍していた10100系ビスタカーや10400系・11400系エースカーは乗り入れができないという問題がありました。後年、架線電圧や車両限界の問題は順次解決されることになりますが、とりあえず昭和39年の時点では『京都・橿原特急』向けの車両を別途準備しなければならなかったのです。

 そこで登場したのが、680系という変わりダネ車両でした。
 680系は、近鉄が、奈良電から引き継いだ車両を〝改造〟して送り出した特急車です。
 種車(たねしゃ)と呼ばれる元の車両は、昭和29年~同32年に製造された奈良電デハボ1200形・デハボ1350形という系式です。デビュー時から固定クロスシート(セミクロス配置)を装備し、奈良電時代にも特急運用で活躍した車両だったそうです。そうした素質が認められたのか、近鉄の手によって「京都線の特急車」として改造されることになったのです。
 車両改造では、座席の取り替え(転換クロスシート化)・冷房装置の設置・便所の設置が行われたほか、車体の塗装も改められて〝近鉄特急スタイル〟にリニューアルされたようです。もと奈良電の車両ですから、架線電圧や車両限界は〝そのまま〟でクリアー。車両系式だけは近鉄流に改番されて、「680系」になりました。

 新幹線接続という利便性が活きて、680系による京都~橿原神宮前間の特急列車は乗客から好評を得たそうです。
 これを受け、昭和39年暮れからは京都~奈良間にも「特急」が設定されることになりましたが、車両数が限られる680系だけでは特急運用をカバーできなくなるとして、京都線特急車の第二弾・18000系が投入されました(登場は昭和40年)。680系から、いきなり系式番号が飛びます。

 18000系は、600ボルト対応の旧型車両から流用した足回り(床下機器)に、新製の車体(ボディ)を載せることで誕生した特急車両です。昭和40年~41年に2両編成×2編成(計4両)が造られました。そのあとを追うようにして新型18200系(後述)が登場することになるので、18000系は最低限の両数しか造られなかったようです。
 車体は新しいので〝パッと見〟には「新型車両」なのですが、足回りは流用品ですから、ひとたび走り出せば床下からは古めかしいモーター音が響き渡る…というのが18000系の特徴だったようです。
 廃車流用の足回りに新しい車体を載せて新型車両に仕立てるのは、鉄道車両の造り方としては決して珍しいことではないのですが、本稿で扱っている10000系「旧ビスタカー」以降の近鉄特急車のなかでは、こういう製造過程を経て登場した系式は18000系以外に無いはずです。


 680系と18000系は、当時の京都線・橿原線向けに造られた車両です。種車改造や機器流用によって造られたので、両系式とも「完全な新型車両ではなかった」という共通点を持ち、近鉄特急の車両史においても異端の特急車と呼ばれたりします。
しかし、産声をあげた京都線特急の〝最初の一歩〟を標したのはこの両系式にほかならず、「新幹線接続」という近鉄特急の新しい方向性を打ち出した功績は大きいと言えます。

 実際のことは私には分かりませんが、
『京都線向けの新型特急車(のちに登場する18200系)が完成する前に、東海道新幹線が開業してしまった…』ということなのかもしれません。
 近鉄としては、「新幹線開業」というタイミングを旅客誘致のチャンスと捉え、その時期に合わせて京都線特急を新設したかったのでしょう。『新型特急車の完成は間に合わなかったけれど、とにかく特急運行を開始した!』というふうな、近鉄の強い意気込みが感じられるようです。


 その後、新系列の特急車両が増備されるにつれて、680系と18000系は存在感を失っていきます。
 680系は昭和49年までに特急運用から外され、一般車に格下げされました。格下げ後は、京都から遠く離れた近鉄志摩線(三重)に活躍の場を移し、普通列車運用で最後の力走を見せたのち、昭和62年までに廃車となりました。基本的に、近鉄は特急車両の格下げ運用をしない会社なので、この680系の扱いは珍しいと言えます。
 18000系は『京都・橿原特急』一筋で走りぬき、昭和57年に廃車となりました。京都線の昇圧(架線電圧1500ボルト化)にも対応して走り続けましたが、基本的な走行性能の問題から他系式の特急車と連結運転ができず、また、連続勾配区間がある大阪線(伊勢方面)への乗り入れもできないなど、制約を抱え続けた車両でした。


 なにぶん、私自身が見たことも乗ったこともない系式なので…、思い出から書き綴る事柄がありません。



新エースカー (昭和38年)

2007年07月07日 13時16分13秒 | 近鉄特急
『新エースカー』

車両系式:11400系
登場初年:昭和38年(1963年)
全廃車年:平成9年(1997年)
製造両数:45両(3連×15本)


 昭和36年(1961年)に颯爽と登場した10400系(旧エースカー)は、古びた旧型特急車で運行されていた「乙特急」に新風を吹き込み、乗客に喜ばれたようです。ただし、車両数の関係から、全ての乙特急を10400系でカバーするのは無理だったので、不足を補うために旧型特急車の運用も依然として残っていたようです。

 そこで、残存する旧型特急車の淘汰と、乙特急のさらなる増発を図るため、昭和38年(1963年)に11400系「エースカー」が登場しました。
 この時期、特急輸送の充実化のために、次々と新型車両が造られたのですね。当時の日本経済と同様、近鉄特急も着実に成長路線を歩んでいた頃なのだと思います。一方で、戦後の混乱期を駆け抜けてきた旧型特急車たちは、これを機に「急行・各停」用途の一般車に格下げされる運命となったのです。

 11400系「エースカー」は、昭和38年に3両編成×10編成(30両)が登場し、続いて、昭和40年に3両編成×2編成(6両)と、2両編成×3編成(6両)が増備され、10100系(新ビスタカー)と並んで当時の近鉄特急を支える大きな勢力に成長しました。10400系(旧エースカー)の量産編成と呼んでも良さそうな車両でしたが、「11400系」という新しい系式を名乗ることになりました。モーター出力や空調方式に10400系との違いがあったようなので、系式を区分するほうが良かったのかもしれません。

 10400系が4両編成を1単位としたのに対し、11400系は3両編成で1単位という仕組みでした。しかし、全ての車両に運転台を装備し、最短の2両編成から自由に車両数を調節できる、という器用さは受け継いでいました。さまざまな場面で適切な輸送力を発揮する「エースカー」の本領ですね。

 昭和40年に増備された編成のなかに、2両編成の〝短いエースカー〟が3編成含まれていたことは、私も詳しく知りませんでしたが、昭和44年に、これら2両編成に1両ずつ先頭車が付け足されており、これによって11400系は全編成が3両編成に統一されたとのことです。従って、同系の最終的な両数は、3両編成×15編成(合計45両)となりました。
 ちなみに、2両編成バージョンを3両編成化するときに造られた〝増結先頭車〟というのは、昭和44年当時に製作中だった12200系(後述)の先頭車両に準じた形状となり、本来の11400系とは異なる顔に仕上がったのが特徴です。つまり、3両編成の前と後ろとで〝顔が違った〟わけです。
 そう言われれば…、確かに、前後で顔の違う編成が走っていましたね。私も実物を見た記憶があります。

 10400系と同じように、11400系も、車両更新や内装のグレードアップを受けながら大事に使われた車両でした。後年は、中間車の運転台が撤去されて3両固定編成になったほか、前面の特急マークが字幕式の行き先表示機に改められるなど、「デビュー当時の姿とは雰囲気が変わった」と言われています。
 けれど、私が自分の目で見て記憶している11400系は、この〝後年の姿〟にほかなりません。デラックスな印象は無かったけれど、必要十分な装備を持ったシンプルな特急車でした。

 近鉄特急の車両史において、この11400系を呼ぶときは、『新エースカー』というのが一般的です。
 10400系(旧エースカー)とともに長きにわたって活躍し、平成5年(1993年)から順次引退が始まり、平成9年(1997年)までに全ての編成が姿を消しました。



(↑) 1989年4月4日、京都線の木津川鉄橋付近で写した11400系です。
  当時のことなので、
  『珍しくもない電車が走って来たな…』
  ぐらいの気持ちで写した1枚です。
  シャッタースピードが〝なってない〟ですね。

 例によって曖昧な記憶ですが…、
 11400系と2両編成の特急車を連結した「5両編成」っていうのが、当時は京都線にも走っていましたよね? あの頃は、18200系や18400系(いずれも後述)といった2両編成の特急車がたくさんありましたからね。
 大阪線では11400系と4両編成をつないだ「7両編成」も走っていたと思います。

 11400系の引退以後、近鉄特急には「3両編成で1単位」という系式がありませんから、3両・5両・7両といった〝奇数〟の両数で走る特急列車も無くなってしまいましたね。


◎画像追加

↑上の画像とまったく同じ場所での撮影。
 これも1989年の記録です。これは秋ごろだったかな。



あおぞら号 (昭和37年)

2007年07月01日 17時29分36秒 | 近鉄特急
『あおぞら号』(団体専用ビスタカー)

車両系式:20100系
登場初年:昭和37年(1962年)
全廃車年:平成5年(1993年)
製造両数:15両(3連×5本)
※昭和38年「ブルーリボン賞」受賞車両(近鉄第2号)


 10400系(旧エースカー)がデビューした翌年-昭和37年(1962年)に、20100系「あおぞら号」が登場しました。
 20100系「あおぞら号」は、伊勢方面への修学旅行輸送を主な目的として製造された、私鉄では極めて珍しい〝団体専用車両〟でした。臨時列車の運用で一般客を乗せて走ったこともあったようですが、基本的には団体貸切運用を本業としていた車両です。(デビューからまもない頃に、同系が臨時特急に使われたこともあったそうです。)
 団体用という特異なポジションにあった同系ですが、近鉄の車両史では「特急車」の分類で紹介されることが多いです。本稿もそれにならって、簡単に記しておきます。

 20100系「あおぞら号」は、3両編成が5編成(合計15両)造られました。
 『ビスタカー(二階建て)で修学旅行に行きたい!』という子供たちの願いを叶えるために、「全車二階建て」という大胆な設計になったのが特徴です(但し3両編成のうち中間1両の一階部分は機械室に充てられ、乗車は不可だった)。
 10100系(新ビスタカー)や、のちの30000系(ビスタカーⅢ世)の車体にもデザインされた「VISTA CAR」という銀色の横文字マークは、この20100系の車体にも付けられていて、団体専用車ながらも「ビスタカー」の一員に加えられていた車両でした。
 車内は、二人掛け&三人掛けによる横5列式の固定クロスシートが採用されて、3両編成での座席定員は398人を数え、これは平床式構造の10400系(旧エースカー)3両編成と比較すると倍以上の収容力でした。そのほか、救護室(乗車中に気分が悪くなった場合などにゴロンと横になれるスペース)や冷水機の装備もありましたが、オール二階建てという構造上、冷房装置(クーラー)は付いていませんでした(取り付けるための空間的余裕が無かったのかも)。
 全車二階建てのインパクトで注目を集め、昭和38年に、近鉄電車としては二度目となる「ブルーリボン賞」に輝きました。

 20100系が登場した当時、伊勢エリアの近鉄線は宇治山田で終点だったようですが、その後、鳥羽・賢島への乗り入れが実現し、また、奈良電気鉄道の合併によって京都線が誕生するなど、近鉄の路線網は一段と拡大して、団体輸送の範囲も広がりました。
 20100系は最後まで団体用という立場で走りぬき、平成5年(1993年)までに全車両が引退しました。私の記憶は曖昧ですが、確か、平成5年まで残っていたのは1編成だけで、ほかの4編成は、平成元年(1989年)に行われた「さよなら運転」を機に一足早く引退したのではなかったかと思います。いずれにせよ、長きにわたって活躍した車両でした。
 「あおぞら号」が引退したのち、その役割は「あおぞらⅡ」や20000系「楽」に受け継がれて今日に至っています。



↑こんな写真しか無いのですが…、
私の手元にある、数少ない「あおぞら号」の写真です。
1988年11月3日の午前中に京都線大久保駅で撮影したものです。
待ち構えていたのではなく、たまたま遭遇したワンシーンです。

しかし、この日付(撮影日)は、伝説の「ふらり旅」の日ですな。
これを写したのが大久保駅でしょう?
このあと、私はふらふらと、近鉄電車で名古屋まで行くことになるのです。
行ったは良いけれど、名古屋から帰ってくるのが大変だった…。



◎画像追加


↑古いアルバムから出てきた一枚。1990年ごろの撮影だったか。
 奈良線の東生駒駅ホームで撮影していたら、偶然にやってきた「あおぞら号」です。(回送)
 待避線に入って、後続の定期列車に先を譲ってから発車してゆきました。



旧エースカー (昭和36年)

2007年06月10日 17時54分54秒 | 近鉄特急
『旧エースカー』

車両系式:10400系
登場初年:昭和36年(1961年)
全廃車年:平成4年(1992年)
製造両数:8両(4連×2本)

 昭和34年の名古屋線広軌化によって10100系(新ビスタカー)が名阪特急に就役したのを機に、それまで君臨してきた『旧性能特急車』(本稿では扱っていないですが、2250系・6421系・6431系など、ビスタカー登場以前に造られた旧型車両のこと。また、旧性能車ではないけれど10000系「旧ビスタカー」も立場上はここに含まれたみたい)は「準特急」という役割に回ることになりました。ノンストップ便ではなく、沿線の主要駅に停車しながら走る特急列車の誕生です。
 昭和35年には特急種別の呼び名が整理されて、ノンストップ特急(この時期には10100系名阪特急のこと)は「甲特急」、準特急は「乙特急」と呼ばれるようになり、この呼び名は現在も使われています。

 このように特急網の拡充が進められるなか、昭和36年(1961年)に新型10400系「エースカー」が登場しました。
 10100系(新ビスタカー)の弟分的ポジションに入る車両ですが、10400系は当初から「乙特急」での運用が想定されていたので、二階建てや連接構造は採用されず、見た目にはビスタカーのような華やかさは持ち合わせていませんでした。
 背景には、甲特急の10100系と乙特急の旧型車両とで車内設備の格差が〝大きすぎた〟ため、シンプルな構造でも良いから「乙特急向け」の新型車両を投入する必要があったようです。

 10400系は、4両編成が2編成(合計8両)造られました。
 「エースカー」と呼ぶ割りには製造両数が少ないな…という印象ですが、まだ10100系(新ビスタカー)の増備が続けられていた頃だし、一度に〝あれもこれも〟というわけにいかなかったのかもしれません。この時期は、乙特急の運転本数も限られていたようなので、とりあえず、これで良かったのでしょう。
 10100系が3両編成だったのに対して、10400系は4両編成で1編成と数える仕組みでした。とはいうものの、すべての車両が〝運転台付き〟という特徴を持ち、最短は2両編成から、3両編成でも4両編成でも運行できるという器用さを兼ね備えていました。先頭車両はすべて貫通型タイプだったので、兄貴分の10100系と連結運転することも可能で、新ビスタカーに〝お供〟して名阪甲特急に運用されることもあったようです。
 いろいろな場面で、そのとき必要とされる輸送力を発揮できることから、10400系はトランプの切り札にたとえて「エースカー」と名付けられました。デビュー当時から「エースカー」と呼ばれていたそうなので、そういう使い方を意図して開発された車両だと言えるでしょう。

 10400系の登場から2年後、これに改良を加えた11400系「エースカー」(後述)が登場することになります。日々進歩してゆく技術と、使い勝手の良い車両を追求する精神によって、系式がどんどん増えていきます。先述した「新・旧ビスタカー」の場合と同じく、ここでも同時期に「2種類のエースカー」が共存することになり、愛称名に〝新・旧〟を冠して区別をします。
 近鉄特急の車両史において、この10400系を呼ぶときは、『旧エースカー』というのが一般的です。初代エースカーとは、あまり言わないですね。エースカーⅠ世とも言いません。

 シンボル性のない汎用型車両ならではの〝強み〟か、10400系はデビューから30年近く活躍を続け、廃車されたのは平成4年(1992年)のことです。車両更新および内装のグレードアップを受けながら、大事に使われた車両でした。
 後年は4両編成に固定化され、名古屋線~伊勢方面での乙特急運用で活躍していました。京都線へは走ってこない車両でしたが、私は高校時代に伊勢方面へ出かけた折り、この10400系を見たことがあります。せめて写真の1枚でも撮っておけば…、と悔やまれるところです。


新ビスタカー (昭和34年)

2007年06月02日 23時53分16秒 | 近鉄特急
『新ビスタカー』(二代目ビスタカー)

車両系式:10100系
登場初年:昭和34年(1959年)
全廃車年:昭和54年(1979年)
製造両数:54両(3連×18本)
※昭和35年「ブルーリボン賞」受賞(近鉄第1号)


 昭和34年(1959年)に、10100系「ビスタカー」が登場しました。前年(昭和33年)の10000系「旧ビスタカー」に引き続いて、二階建て特急車の誕生です。
 10100系は、10000系の運用経験を活かして製作され、二階建て車両を中心に完成度の高い編成に仕上がりました。また、近鉄の念願だった「名古屋線広軌化(線路幅の拡大)」の完成後をにらみ、名阪直通特急(伊勢中川での乗り換え不要化)での運用を視野に入れた〝量産車両〟となるなど、満を持して登場した感じが強い車両です。昭和34年から同38年まで数回にわたって増備が続けられ、最終的に3両編成が18編成(合計54両)造られました。

 10000系が7両編成だったのに対して、10100系は量産車としての本格運用を考慮して3両編成を1単位とする身軽なスタイルになりました。編成単位では短いものの、当初から先頭車両の形状には「①…流線形タイプ(非貫通型)」と「②…流線形ではないタイプ(貫通型)」の二種類が用意され、
・上本町方が①-宇治山田方が② →A編成
・上本町方が②-宇治山田方が① →B編成
・上本町方、宇治山田方ともに② →C編成
という3種類の編成が計画的に製造、配備されました。
(内訳:A編成とB編成が各5編成、C編成が8編成、存在した。)

 このうち、②の貫通型先頭車を介せば他の編成との連結運転ができ、
A編成+B編成、
A編成+C編成、
C編成+B編成、
C編成+C編成、
の組み合わせによって10100系の〝6両編成〟(3両編成×2本)ができあがる仕組みでした。旅客需要に応じて編成をつないだり切り離したりするのは、現在でも近鉄特急の特徴です。

 10100系は、3両編成のうち中央の1両が二階建てで、それを挟みこむ前後の先頭車両は普通床(平床式)でした。編成内では、隣り合う車両どうしが一つの台車でドッキングされる連接構造が採用されていました。二階建て車両・連接構造とも10000系の運用経験が土台になったもので、特に、セールスポイントの二階建て車両は10000系のドーム型から進化し、平成時代の現在にあっても違和感は無いであろうスマートな形状でした。
 
 昭和34年暮れに名古屋線の広軌化が完成し、10100系が名阪直通特急として走り始めました。伊勢中川でのスイッチ・バック(運転停車扱い)は必要だったものの、乗り換えの不便は解消されて、名阪間が1本の列車で結ばれました。その2年後には中川短絡線が完成し、スイッチ・バックの手間もなくなり、正真正銘の「名阪ノンストップ特急」が誕生しました。
 こうした近鉄電車の歴史に残る数々の場面に、10100系は立ち会ってきたのです。時は、東海道新幹線が開業する前のことで、名阪間の旅客輸送では近鉄がシェアを握っていた頃です。注目を集める二階建て車両も連結していたし、名阪特急での活躍は10100系にとって最高の舞台だったことでしょう。
 東海道新幹線の開業後は状況が変わり、10100系の運用も名阪特急のみに限定せず、他線区の特急にも回されるようになりました。そうした幅広い活躍のなかで、『近鉄特急=ビスタカー』というイメージを世間に定着させたことは、10100系の輝かしい功績だと言えます。

 事故に遭ったあげく短命に終わった10000系とは正反対に、10100系は大きなトラブルに見舞われることも無く快調に走り続け、製造された54両すべてが任務を果たし終えて、昭和54年(1979年)までに〝勇退〟のうえ廃車となりました。
 欲を言えば、年数的にはもう少し活躍を続けても良かったのではないかと思われますが、車両更新によるグレードアップを選ばず、後継の新型車両30000系「ビスタカーⅢ世」(後述)にバトンを渡す形で引退しました。
 去り際も、きれいだったようです。
『10100系さよなら運転』として、A編成+C編成+B編成による迫力の9両編成(ビスタカー三重連)が走り、沿線では多くの人がその勇姿を見届けたといいます。先の10000系との対比という意味もありますが、10100系は『幸せな一生を送った車両』と評されることが多いです。
 ただ…、私は、この10100系(実物)を見たことがありません。10100系の活躍中に私は生まれているのですが、その頃は近鉄沿線に住んでおりませんでした。残念!

 近鉄特急の車両史において、この10100系を呼ぶときは、『新ビスタカー』というのが一般的です。二代目ビスタカー、ビスタカーⅡ世、でも通じますが…。



旧ビスタカー (昭和33年)

2007年05月27日 15時32分21秒 | 近鉄特急
『旧ビスタカー』(初代ビスタカー)

車両系式:10000系
登場初年:昭和33年(1958年)
全廃車年:昭和46年(1971年)
製造両数:7両(7連×1本)


 「もはや戦後ではない」から始まった昭和30年代。

 昭和33年に、当時の最新技術と数々の斬新なアイデアを詰め込んで造られた、10000系「ビスタカー」が登場しました。日本初の二階建て車両を連結するなど、わが国の鉄道史にも〝記録される〟画期的な車両になりました。
 
 のちに近鉄特急の代名詞にもなった『ビスタカー』という愛称名が登場したのは、このときからです。二階建て車両からの眺望を売り込むべく、外国の優等列車にちなんで付けられた愛称名だというのが定説のようです。二階席の屋根がドーム型に突き出した構造だったので、ビスタドームとか、ドームカー、とも呼ばれたようです。
 
 実際のところ、二階建て車両や連接構造の車体などの新機軸には試作的な意味合いが強く(各部にわたって可能な限り試作的要素を盛り込んだ、とも言われる)、10000系は二階建て車両を2両組み込んだ7両編成が1編成製造されただけでした。試作車の宿命か、仲間がいない〝ひとりぽっちのビスタカー〟だったのです。
 翌年(昭和34年)に続いて登場することになる量産車両10100系「ビスタカー」(後述)に数々のデータを提供し、同時に、これに主役の座を取って代わられる運命でした。

 昭和41年(1966年)に大阪線国分駅で事故に遭って先頭車を破損したことも、10000系の歴史のなかでは必ず語られます。事故復旧の修繕を受けて、見事に復帰を果たしたものの、独特の形状だった流線形は失われ、先頭車の顔つきが変わってしまいました。
 事故復旧を果たすも、本線上ではすでに10100系などの後継車両の活躍がめざましく、10000系は活躍の場を失って戦線離脱、そのまま昭和46年(1971年)に全車廃車となりました。
 登場から廃車までの在籍期間が13年間でした。これは、近鉄特急車両のなかで〝最も短い生涯〟として語り継がれています。

 近鉄特急の車両史において、この10000系を呼ぶときは、『旧ビスタカー』というのが一般的です。初代ビスタカー、ビスタカーⅠ世、でも通じますが…。