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ダンポポの種

備忘録です

あおぞら号 (昭和37年)

2007年07月01日 17時29分36秒 | 近鉄特急
『あおぞら号』(団体専用ビスタカー)

車両系式:20100系
登場初年:昭和37年(1962年)
全廃車年:平成5年(1993年)
製造両数:15両(3連×5本)
※昭和38年「ブルーリボン賞」受賞車両(近鉄第2号)


 10400系(旧エースカー)がデビューした翌年-昭和37年(1962年)に、20100系「あおぞら号」が登場しました。
 20100系「あおぞら号」は、伊勢方面への修学旅行輸送を主な目的として製造された、私鉄では極めて珍しい〝団体専用車両〟でした。臨時列車の運用で一般客を乗せて走ったこともあったようですが、基本的には団体貸切運用を本業としていた車両です。(デビューからまもない頃に、同系が臨時特急に使われたこともあったそうです。)
 団体用という特異なポジションにあった同系ですが、近鉄の車両史では「特急車」の分類で紹介されることが多いです。本稿もそれにならって、簡単に記しておきます。

 20100系「あおぞら号」は、3両編成が5編成(合計15両)造られました。
 『ビスタカー(二階建て)で修学旅行に行きたい!』という子供たちの願いを叶えるために、「全車二階建て」という大胆な設計になったのが特徴です(但し3両編成のうち中間1両の一階部分は機械室に充てられ、乗車は不可だった)。
 10100系(新ビスタカー)や、のちの30000系(ビスタカーⅢ世)の車体にもデザインされた「VISTA CAR」という銀色の横文字マークは、この20100系の車体にも付けられていて、団体専用車ながらも「ビスタカー」の一員に加えられていた車両でした。
 車内は、二人掛け&三人掛けによる横5列式の固定クロスシートが採用されて、3両編成での座席定員は398人を数え、これは平床式構造の10400系(旧エースカー)3両編成と比較すると倍以上の収容力でした。そのほか、救護室(乗車中に気分が悪くなった場合などにゴロンと横になれるスペース)や冷水機の装備もありましたが、オール二階建てという構造上、冷房装置(クーラー)は付いていませんでした(取り付けるための空間的余裕が無かったのかも)。
 全車二階建てのインパクトで注目を集め、昭和38年に、近鉄電車としては二度目となる「ブルーリボン賞」に輝きました。

 20100系が登場した当時、伊勢エリアの近鉄線は宇治山田で終点だったようですが、その後、鳥羽・賢島への乗り入れが実現し、また、奈良電気鉄道の合併によって京都線が誕生するなど、近鉄の路線網は一段と拡大して、団体輸送の範囲も広がりました。
 20100系は最後まで団体用という立場で走りぬき、平成5年(1993年)までに全車両が引退しました。私の記憶は曖昧ですが、確か、平成5年まで残っていたのは1編成だけで、ほかの4編成は、平成元年(1989年)に行われた「さよなら運転」を機に一足早く引退したのではなかったかと思います。いずれにせよ、長きにわたって活躍した車両でした。
 「あおぞら号」が引退したのち、その役割は「あおぞらⅡ」や20000系「楽」に受け継がれて今日に至っています。



↑こんな写真しか無いのですが…、
私の手元にある、数少ない「あおぞら号」の写真です。
1988年11月3日の午前中に京都線大久保駅で撮影したものです。
待ち構えていたのではなく、たまたま遭遇したワンシーンです。

しかし、この日付(撮影日)は、伝説の「ふらり旅」の日ですな。
これを写したのが大久保駅でしょう?
このあと、私はふらふらと、近鉄電車で名古屋まで行くことになるのです。
行ったは良いけれど、名古屋から帰ってくるのが大変だった…。



◎画像追加


↑古いアルバムから出てきた一枚。1990年ごろの撮影だったか。
 奈良線の東生駒駅ホームで撮影していたら、偶然にやってきた「あおぞら号」です。(回送)
 待避線に入って、後続の定期列車に先を譲ってから発車してゆきました。



旧エースカー (昭和36年)

2007年06月10日 17時54分54秒 | 近鉄特急
『旧エースカー』

車両系式:10400系
登場初年:昭和36年(1961年)
全廃車年:平成4年(1992年)
製造両数:8両(4連×2本)

 昭和34年の名古屋線広軌化によって10100系(新ビスタカー)が名阪特急に就役したのを機に、それまで君臨してきた『旧性能特急車』(本稿では扱っていないですが、2250系・6421系・6431系など、ビスタカー登場以前に造られた旧型車両のこと。また、旧性能車ではないけれど10000系「旧ビスタカー」も立場上はここに含まれたみたい)は「準特急」という役割に回ることになりました。ノンストップ便ではなく、沿線の主要駅に停車しながら走る特急列車の誕生です。
 昭和35年には特急種別の呼び名が整理されて、ノンストップ特急(この時期には10100系名阪特急のこと)は「甲特急」、準特急は「乙特急」と呼ばれるようになり、この呼び名は現在も使われています。

 このように特急網の拡充が進められるなか、昭和36年(1961年)に新型10400系「エースカー」が登場しました。
 10100系(新ビスタカー)の弟分的ポジションに入る車両ですが、10400系は当初から「乙特急」での運用が想定されていたので、二階建てや連接構造は採用されず、見た目にはビスタカーのような華やかさは持ち合わせていませんでした。
 背景には、甲特急の10100系と乙特急の旧型車両とで車内設備の格差が〝大きすぎた〟ため、シンプルな構造でも良いから「乙特急向け」の新型車両を投入する必要があったようです。

 10400系は、4両編成が2編成(合計8両)造られました。
 「エースカー」と呼ぶ割りには製造両数が少ないな…という印象ですが、まだ10100系(新ビスタカー)の増備が続けられていた頃だし、一度に〝あれもこれも〟というわけにいかなかったのかもしれません。この時期は、乙特急の運転本数も限られていたようなので、とりあえず、これで良かったのでしょう。
 10100系が3両編成だったのに対して、10400系は4両編成で1編成と数える仕組みでした。とはいうものの、すべての車両が〝運転台付き〟という特徴を持ち、最短は2両編成から、3両編成でも4両編成でも運行できるという器用さを兼ね備えていました。先頭車両はすべて貫通型タイプだったので、兄貴分の10100系と連結運転することも可能で、新ビスタカーに〝お供〟して名阪甲特急に運用されることもあったようです。
 いろいろな場面で、そのとき必要とされる輸送力を発揮できることから、10400系はトランプの切り札にたとえて「エースカー」と名付けられました。デビュー当時から「エースカー」と呼ばれていたそうなので、そういう使い方を意図して開発された車両だと言えるでしょう。

 10400系の登場から2年後、これに改良を加えた11400系「エースカー」(後述)が登場することになります。日々進歩してゆく技術と、使い勝手の良い車両を追求する精神によって、系式がどんどん増えていきます。先述した「新・旧ビスタカー」の場合と同じく、ここでも同時期に「2種類のエースカー」が共存することになり、愛称名に〝新・旧〟を冠して区別をします。
 近鉄特急の車両史において、この10400系を呼ぶときは、『旧エースカー』というのが一般的です。初代エースカーとは、あまり言わないですね。エースカーⅠ世とも言いません。

 シンボル性のない汎用型車両ならではの〝強み〟か、10400系はデビューから30年近く活躍を続け、廃車されたのは平成4年(1992年)のことです。車両更新および内装のグレードアップを受けながら、大事に使われた車両でした。
 後年は4両編成に固定化され、名古屋線~伊勢方面での乙特急運用で活躍していました。京都線へは走ってこない車両でしたが、私は高校時代に伊勢方面へ出かけた折り、この10400系を見たことがあります。せめて写真の1枚でも撮っておけば…、と悔やまれるところです。


新ビスタカー (昭和34年)

2007年06月02日 23時53分16秒 | 近鉄特急
『新ビスタカー』(二代目ビスタカー)

車両系式:10100系
登場初年:昭和34年(1959年)
全廃車年:昭和54年(1979年)
製造両数:54両(3連×18本)
※昭和35年「ブルーリボン賞」受賞(近鉄第1号)


 昭和34年(1959年)に、10100系「ビスタカー」が登場しました。前年(昭和33年)の10000系「旧ビスタカー」に引き続いて、二階建て特急車の誕生です。
 10100系は、10000系の運用経験を活かして製作され、二階建て車両を中心に完成度の高い編成に仕上がりました。また、近鉄の念願だった「名古屋線広軌化(線路幅の拡大)」の完成後をにらみ、名阪直通特急(伊勢中川での乗り換え不要化)での運用を視野に入れた〝量産車両〟となるなど、満を持して登場した感じが強い車両です。昭和34年から同38年まで数回にわたって増備が続けられ、最終的に3両編成が18編成(合計54両)造られました。

 10000系が7両編成だったのに対して、10100系は量産車としての本格運用を考慮して3両編成を1単位とする身軽なスタイルになりました。編成単位では短いものの、当初から先頭車両の形状には「①…流線形タイプ(非貫通型)」と「②…流線形ではないタイプ(貫通型)」の二種類が用意され、
・上本町方が①-宇治山田方が② →A編成
・上本町方が②-宇治山田方が① →B編成
・上本町方、宇治山田方ともに② →C編成
という3種類の編成が計画的に製造、配備されました。
(内訳:A編成とB編成が各5編成、C編成が8編成、存在した。)

 このうち、②の貫通型先頭車を介せば他の編成との連結運転ができ、
A編成+B編成、
A編成+C編成、
C編成+B編成、
C編成+C編成、
の組み合わせによって10100系の〝6両編成〟(3両編成×2本)ができあがる仕組みでした。旅客需要に応じて編成をつないだり切り離したりするのは、現在でも近鉄特急の特徴です。

 10100系は、3両編成のうち中央の1両が二階建てで、それを挟みこむ前後の先頭車両は普通床(平床式)でした。編成内では、隣り合う車両どうしが一つの台車でドッキングされる連接構造が採用されていました。二階建て車両・連接構造とも10000系の運用経験が土台になったもので、特に、セールスポイントの二階建て車両は10000系のドーム型から進化し、平成時代の現在にあっても違和感は無いであろうスマートな形状でした。
 
 昭和34年暮れに名古屋線の広軌化が完成し、10100系が名阪直通特急として走り始めました。伊勢中川でのスイッチ・バック(運転停車扱い)は必要だったものの、乗り換えの不便は解消されて、名阪間が1本の列車で結ばれました。その2年後には中川短絡線が完成し、スイッチ・バックの手間もなくなり、正真正銘の「名阪ノンストップ特急」が誕生しました。
 こうした近鉄電車の歴史に残る数々の場面に、10100系は立ち会ってきたのです。時は、東海道新幹線が開業する前のことで、名阪間の旅客輸送では近鉄がシェアを握っていた頃です。注目を集める二階建て車両も連結していたし、名阪特急での活躍は10100系にとって最高の舞台だったことでしょう。
 東海道新幹線の開業後は状況が変わり、10100系の運用も名阪特急のみに限定せず、他線区の特急にも回されるようになりました。そうした幅広い活躍のなかで、『近鉄特急=ビスタカー』というイメージを世間に定着させたことは、10100系の輝かしい功績だと言えます。

 事故に遭ったあげく短命に終わった10000系とは正反対に、10100系は大きなトラブルに見舞われることも無く快調に走り続け、製造された54両すべてが任務を果たし終えて、昭和54年(1979年)までに〝勇退〟のうえ廃車となりました。
 欲を言えば、年数的にはもう少し活躍を続けても良かったのではないかと思われますが、車両更新によるグレードアップを選ばず、後継の新型車両30000系「ビスタカーⅢ世」(後述)にバトンを渡す形で引退しました。
 去り際も、きれいだったようです。
『10100系さよなら運転』として、A編成+C編成+B編成による迫力の9両編成(ビスタカー三重連)が走り、沿線では多くの人がその勇姿を見届けたといいます。先の10000系との対比という意味もありますが、10100系は『幸せな一生を送った車両』と評されることが多いです。
 ただ…、私は、この10100系(実物)を見たことがありません。10100系の活躍中に私は生まれているのですが、その頃は近鉄沿線に住んでおりませんでした。残念!

 近鉄特急の車両史において、この10100系を呼ぶときは、『新ビスタカー』というのが一般的です。二代目ビスタカー、ビスタカーⅡ世、でも通じますが…。



旧ビスタカー (昭和33年)

2007年05月27日 15時32分21秒 | 近鉄特急
『旧ビスタカー』(初代ビスタカー)

車両系式:10000系
登場初年:昭和33年(1958年)
全廃車年:昭和46年(1971年)
製造両数:7両(7連×1本)


 「もはや戦後ではない」から始まった昭和30年代。

 昭和33年に、当時の最新技術と数々の斬新なアイデアを詰め込んで造られた、10000系「ビスタカー」が登場しました。日本初の二階建て車両を連結するなど、わが国の鉄道史にも〝記録される〟画期的な車両になりました。
 
 のちに近鉄特急の代名詞にもなった『ビスタカー』という愛称名が登場したのは、このときからです。二階建て車両からの眺望を売り込むべく、外国の優等列車にちなんで付けられた愛称名だというのが定説のようです。二階席の屋根がドーム型に突き出した構造だったので、ビスタドームとか、ドームカー、とも呼ばれたようです。
 
 実際のところ、二階建て車両や連接構造の車体などの新機軸には試作的な意味合いが強く(各部にわたって可能な限り試作的要素を盛り込んだ、とも言われる)、10000系は二階建て車両を2両組み込んだ7両編成が1編成製造されただけでした。試作車の宿命か、仲間がいない〝ひとりぽっちのビスタカー〟だったのです。
 翌年(昭和34年)に続いて登場することになる量産車両10100系「ビスタカー」(後述)に数々のデータを提供し、同時に、これに主役の座を取って代わられる運命でした。

 昭和41年(1966年)に大阪線国分駅で事故に遭って先頭車を破損したことも、10000系の歴史のなかでは必ず語られます。事故復旧の修繕を受けて、見事に復帰を果たしたものの、独特の形状だった流線形は失われ、先頭車の顔つきが変わってしまいました。
 事故復旧を果たすも、本線上ではすでに10100系などの後継車両の活躍がめざましく、10000系は活躍の場を失って戦線離脱、そのまま昭和46年(1971年)に全車廃車となりました。
 登場から廃車までの在籍期間が13年間でした。これは、近鉄特急車両のなかで〝最も短い生涯〟として語り継がれています。

 近鉄特急の車両史において、この10000系を呼ぶときは、『旧ビスタカー』というのが一般的です。初代ビスタカー、ビスタカーⅠ世、でも通じますが…。