
↑とっておき

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2008年(平成20年)11月26日、岡山にて。
0系電車の引退が目前にせまり、記念撮影&さよなら乗車に出かけたときに撮影したもの。
2025年3月10日
山陽新幹線全通50周年によせて
~0系が運んでくれたもの~
私は、1972年(昭和47年)5月に兵庫県高砂市で生まれた。
翌1973年(昭和48年)の春、父の転勤により、家族と広島市(西広島)へ引っ越しした。
私は1歳の誕生日を迎える直前(赤ん坊)だったので、この引っ越しについて記憶は無い。
当ブログでも、たまに「私は子どもの頃広島で過ごしました…」という話が出るけれど、兵庫県で生まれて・幼少時代を広島で過ごした、とは、そういう事情による。
1973年(昭和48年)4月(=わが家が広島へ引っ越ししてすぐ)に、早速、父方・母方の祖父母(現在はみんな他界)が連れ立って、兵庫から広島へ遊びに来たそうだ。祖父母たちにすれば、自分の子・孫たちの広島での暮らしを一目見ておきたかったのだろう。
ちなみに、昭和48年当時の鉄道事情は、山陽新幹線が岡山までしか開通していなかった。(道路事情についても、中国自動車道や山陽自動車道はまだ通じていなかった時代だ)
実際、祖父母たちも、姫路から岡山まで新幹線に乗って、そこで在来線に乗り継いで広島を目指したようだ。
繰り返すけれど、私は赤ん坊だったので、引っ越し早々に祖父母たちが広島へ遊びに来たのも記憶に無い。
でも後年、私は、そのときの思い出話を生前の祖母から直接聞いている。私が中学生の時だった。
祖母は懐かしそうに広島を訪れたときの思い出を喋って、孫の私に聞かせてくれた。
祖母の話のなかで、私が興味深く思った点がある。
昭和48年の春。連れ立って広島へ向かった祖父母たちは、その列車の中で泣いていたそうだ。
「(列車のなかで、特に祖母どうしが、)ふたりで一緒に泣いてたんや


」と、祖母は言っていた。姫路から岡山へ向かう新幹線の車内でそういうことがあったのだろうか。
祖母が言うには、「悲しくて泣いていた」そうだ。
さあ!今から広島を訪ねるぞ!という状況なのに、何が悲しかったのだろう?…と私は思う。
広島へ着けば子や孫と再会できて、滞在中は観光見物もできるのだから、「楽しい

」はずだろ?…と私は単純に思ってしまうけれど、祖母たちの気持ちはそれだけではなかったようだ。
祖母は言った。
「子や孫たちが、遠い町へ引っ越しした… という実感がわいてきて、寂しくなった」
そして、
「なにより、その町が広島だというのが、悲しかった」
戦争の時代を生きてきた祖母の世代の人たちにとって、「広島」という地名への印象は、私がそれを伝え聞き、学んで知っているのとは恐らくレベルが違う、生々しい記憶でもあったのだろう。
『よりによって、広島へ引っ越しするなんて』
という意味も含んで悲しんだのは、あくまでも当時の祖母の個人的感想に過ぎないと断っておくけれど、戦後28年が経っていた昭和48年にもなお、そういう受け止めをする人が居たというのは、平和な時代に生まれ育った私には興味深い。或いは、語り継ぐべき大切な事柄なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
【書き足し】
1975年(昭和50年)3月10日に岡山~博多間が開通(博多開業)して、山陽新幹線が全通

そして本日2025年(令和7年)3月10日、山陽新幹線全通50周年です。
きょうのブログ記事本文(原稿)は、2008年に0系電車が引退するときに書いたものです。
但し、話は完成しておらず、未完成の下書き状態のまま今日まで寝かせてあったのです。
日の目を見ぬまま(

)放置されていた記事ですが、きょうは「山陽新幹線50周年」ということで、投稿のラスト・チャンスかも知れないと思い、ちょこっと書き足して投稿に踏み切りました。
昭和20年代から30年代、40年代と、戦後の復興から高度経済成長への時代変遷があって日本は大きく変わってきた――と、私自身も学校で教わりました。
昭和48年ともなれば、例えば「通信」の仕組みだって、だいぶん発展していたのだろうと想像しますけれど、新聞やテレビで〝広島のようす〟が伝えられても、結局、当時のウチの祖母にとって広島は「遠いところ」のままだったのかなと思います。祖母にとって、兵庫と広島を隔てる〝正味の距離感〟はまだまだ遠かったのかな…と思います。
その距離感を埋めて、広島をぐっと身近に引き寄せたのが、山陽新幹線!それも0系電車!だったのではなかったか―。この記事は、そういう思いで、2008年に書いていたものです。
礎となった0系電車、そして今日へ続く山陽新幹線の功績に、敬意と感謝です

「山陽新幹線50周年」おめでとうございます